2009年3月25日 (水)

「地獄くん」

ひさびさのマンガネタである。

またしても大田出版のQJマンガ選書シリーズだ。
どうもこのシリーズには惹かれるものがあるな。

Digokukun

さて、今回はムロタニ・ツネ象の「地獄くん」だ。
なんとも形容のしようのないタイトルだが、どうしても読みたくなる類のタイトルだな。
本書は’67年から複数の少年マンガ誌に掲載されたものを集めたものである。
60年代後半というと、水木しげるに代表される妖怪マンガが流行っていた時期になるので、本作もその流れの中で作られたものであろう。
ムロタニ・ツネ象って、なんか聞いたことのある名前だな、と思っていたら、60年代には少年マンガで活躍した人らしい。
「ピッカリビー」の作者といえば、あぁ、なんとなく知っている、という人もわたしと同世代の人には多いかと思う。
70年代以降は学習マンガの分野で作品を残しているようで、現在でも現役だそうだ。

「地獄くん」とは、表紙写真を転載してるが、この奇妙な人相の少年のことである。
作中でははっきりとは語られていないが、どうやら閻魔大王の孫らしい。
全部で6編のエピソードが語られるが、どれも悪いオトナによってひどい目に遭わされている少年少女を、どこからともなく出現した地獄くんが救うという話である。
救い方も半端じゃなく、殺された母親を生き返えらせたり、大ケガを3秒で治したり、火災現場に飛び込んで逃げ遅れた少年を耐火性のプラスティック容器に詰めて救い出したり、それはもう大活躍なのだ。
しかし、それにも増してすごいのが、悪いオトナの懲らしめ方である。
その徹底ぶりはただごとではない。
手をちぎりとってしまうなんてのは序の口で、ちぎった手を頭にくっつけてしまったり、違法ドライバーをタイヤに変えてしまったり、大地獄鳥に乗っけて地獄に送るわ、一万円札に閉じ込めてドブに流すわ、ムチで絞め殺すわ、もう、残虐の限りを尽くすのである。
少年マンガの勧善懲悪のレベルを遥かに超えている。
このような残酷な処分を下した後、「こんなオトナになってはだめだよ」みたいな作者のコメントをもって作品は締め括られているのであるが、それにしてもなぁ、ちょっとやり過ぎではないか、と。
本書の巻末の解説にも書かれているが、どうも作者はそういう道徳的な寓話を語りたいのではなく、こういう残酷な絵を描きたかっただけなのではないかと思える。
道徳を訴えるには、懲戒の手段が過剰である。

というか、作者は勧善懲悪の道徳話を描こうと意図していなかったのだろう。第五話「地獄の声」という話では、自動車事故で死亡した三太郎少年が閻魔大王に懇願して蘇生するのだが、ひとつ条件があり、蘇生してから24時間はひとことも口をきいてはならない、もし一言でも言葉を発したらそのまま再び死んでしまう、というなんともいえない条件を課せられてしまう。
三太郎君は、両親、友人からの問いかけにも応えず、ひたすら沈黙を続けるのだが、あと2時間ほどで24時間を経過して完全に生き返ることができるというのに、自分をひき殺した二人組みによるひき逃げ事故現場を再度目撃したばっかりに、濡れ衣を着せられようとしたトラック運転手をかばい、真犯人を告発するために声を挙げてしまう。
勧善懲悪話ならば、ここで約束を守って自分の命を優先することより正義を貫いた少年を閻魔大王は褒め称え、蘇生を許すところであるが、作者は三太郎君は無情にも再び冥界に帰してしまう。少年マンガにあるまじき、なんともやりきれない話である。
ちなみにこの話には地獄くんは登場しない。少年マンガで、主人公が登場しないってどうよ。あたかも「トイレット博士」のようである(違うな)。

第六話「死神工場の巻」の途中で本編は終わっている。死神工場(って何だ?)で強制労働を課せられている少年少女を救うべく単身乗り込んだ地獄くんが、悪人工場長に地下室に閉じ込められ溶けた鉛を流し込まれるという危機一髪の状況で不意に終わってしまう。
あぁ~、続きを読みたい!
どうやら、掲載誌が廃刊になったらしい。残念なことである。

併録された「スリラー小僧 恐怖のハエ男」という作品も、「えぇ~、そこまで引っ張って、そういう終わり方?」というくらい唐突に終わっている。
これは廃刊とは関係なく、恐らく作者の意図で終わっているようだが、なんとも無体なことである。

そういうストーリー展開のシュールさだけではない。
各話に挿入された見開き2ページを費やした大ゴマの絵は、まさしくシュールレアリズム絵画あるいは象徴派絵画である。
ダリかエルンストか、はたまたルドンか。
この画風は杉浦茂、徳南誠一郎などの正式に絵画教育を受けた作家の画風に通じるものがある。
例えば、一番下の「地獄時計」の絵は、溶けた時計と這い回る蟻の群れが描かれているが、これなんかそのまんまダリのモチーフだ。
こういう「彼岸の光景」を描く題材として「地獄くん」はぴったりだ。
作者もこういう絵を描きたいがためにこの作品を描いたのではないかと思わせる。
ストーリーはともかく、絵を味わうだけでも十分価値のある作品だ。

これだから、カルトマンガ漁りはやめられない。

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2008年8月10日 (日)

「バイオの黙示録」

昨年の「壁男」の映画化以降、諸星大二郎に対する注目度が再び高くなってきているような気がする。
近年は、2~3年に一度、作品集をまとめて出版し、また沈黙する、というパターンで活動しているみたいだ。

「海神記」も再発されたし、「栞と紙魚子」の新刊も出たし(なんとドラマ化までされたようだ)、そろそろ「魔障ケ岳」の続編でも出ないかな、と思っていたら、まったくの新シリーズだ。
雑誌の掲載作品はまったくチェックしていないので、特段マニアックなファンというわけでもないのだが、もっとも好きなマンガ家であることは間違いない。よた帝の歌詞に与えた影響も非常に大きい。

ふらっと立ち寄った書店で、彼の新作を発見した。
普段、出版情報などをチェックしていないので、新刊が出たことを知るのは店頭で、ってことが多い。
しかも平積み(正確には「縦並べ」なのだが)で置かれている。
さすが、世間の注目を集めている作家だ。

さて、今回の新作は、猟奇伝奇モノではなく、久々の幻想SF風連作である。
こういうアフターハルマゲドンというか別次元世界を描かせると天下一品。諸星ワールド全開の快作である(ややコミカルではあるが)。
近年のグリムもどきの寓話性の高い諸作や「栞と紙魚子」シリーズの軽いノリは、ちょっと無理があるかな、と思っていただけに(好きだけど)、本作は本来の持ち味が生かされていると思う。

ストーリーを紹介してしまうなんて野暮なことはしたくないが、「バイオ戦争後、人間の中にヒト以外の遺伝子が発現する者があらわれ始めた」というオビの惹句だけで、好きな人はそそられるであろう。

諸星の前に諸星なし諸星の後に諸星なし、と称される(って、わたしが言ってるんだけど)この作家の独特の絵柄によるキメラ的クリーチャーが満載。
とにかく人間と各種動物が融合した新生物が跋扈する世界の話である。
思えば、この作家の実質的メジャーデビュー作「生物都市」からして、金属と生物が融合するという悪夢のようなユートピアを描いた作品であった。
人間と別の何かが混ざったイメージがそうとう好きなんだろうな、この人は。
「孔子暗黒伝」の開明獣、「アダムの肋骨」のハーピー、「貞操号の遭難」のイケメン植物?・・・その種のキャラクターは枚挙に暇がない。
特に近年は、羽の生えた少女が多く登場する。
もちろん、本作にも羽の生えた少女(表紙画像参照)が登場し、奇怪でエロティックな雰囲気を振り撒いている。
そうそう。この人の場合、普通の人間の女性よりこういうキメラ的クリーチャーを描いたほうが、エロティックに見える、という不思議な作風だ。
どちらかというと、生身の人間のエロスは狂気と紙一重(よく気の触れた色情狂の女性がよく出てくる)、羽の生えた少女のエロスは純粋無垢みたいな描き方をすることが多いような気がする。
なにか現実の女性に恨みでもあるのだろうか。
聞くところによると作者の夫人はいたって普通の人らしいが・・・。

SFというには科学的裏付けに乏しく、ホラーというにはちょっととぼけた感じだし、現代のようにマンガ作品もジャンル分けがはっきりして、中途半端なリアリズムが有難がられる時代には、なんだかとらえどころのない作家に見えるかもしれない。
しかし、諸星先生の脳髄から溢れ、広がる異次元世界に一度はまってしまうと、そんな些細なリアリズムなどどうでもよくなってしまう。
彼の紡ぎ出すファンタジーの世界に浸るだけで心地よいのである。
あぁ、わたしもカツリ山の断崖やカオカオ様が見てみたい、などと思ってしまうのだ。

うむむ、もはや中毒と言って差し支えないであろう。

Morohoshi

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2008年5月31日 (土)

「天水」

一昨年からライブのステージ衣装に狩衣、奴袴、烏帽子を着用している。
俗に「胡散臭い神主」と言われているのであるが、実はもともとのコンセプトは「神主」というより、むしろ「公家」であった。
「皇帝」と名乗っているが、さすがに「みかど」は畏れ多い。

小学生のころ、夏休みの自由研究に公家の生活を取り上げるような妙な嗜好を持っていた。
「今昔物語」「宇治拾遺物語」など説話モノが好きでよく親しんだものだ。
今にして思えば、「『雅』と『奇天烈』」というよた帝のキャッチコピーの源流はこのあたりにあるのだろう。

花輪和一は、自らの獄中生活(銃刀法違反により懲役3年)を独特の濃密な描画によって描いた「刑務所の中」で著名なマンガ家である。
この作品も花輪の個性満開でヒジョーにおもしろいし、世界への呪詛に満ちた初期の猟奇的作品もなかなか刺激的であるが、やはりこの人の真骨頂は、平安時代を時代背景に描いた不条理王朝説話の世界であろう。
近代的合理主義思想、発想、行動様式とは明らかに異なる世界観、倫理観によって繰り広げられる花輪ワールドは、説話好き古典好きのわたしにとって、もうウハウハなのだ。

個人的な事情はさて措いて、この「天水」である。
花輪作品は現在入手困難なものが多く(本書もそうらしい)、未読作品も多々あるのだが、一連の王朝説話モノとしては、もっともエンターテイメント性に富み、花輪ワールドに初めて触れる人でも安心してお勧めできる。
もともとマニアックな雑誌に短編を中心に描いている作家であるが、これは講談社のアフタヌーンに連載され(1992~94年。作者の投獄によって中断)、講談社から出版されたものである。

ストーリーを簡単に紹介しよう。

平安の都、訳あって一人で暮らしている少女棗(なつめ)が、ひょんなことで河童さんと暮らすようになる。
棗のまわりで起こる奇怪な現象、襲い来るもののけを河童さんと協力して解決、退治する、というのが前半のストーリー。

こう説明すると、「ドラえもん」に代表される典型的な普通の子供と異界の者とのコラボレーションもののようである。
たしかにそういう面は強く感じられ、花輪作品としては、破格に明るい。商業誌での連載ということを強く意識したのだろうか。
しかし、登場人物の行動はやはり花輪世界の住人であり、あたかも上古の人々を見てきたかのように描く作者の世界観は健在である。
それよりもなによりもやはりあの濃密な花輪絵で描かれたもののけを見るだけで、安心する。
さらに、もののけ調伏の場面で繰り広げられる呪文と祭式の様子は、血沸き肉踊る。

後半は、棗の母を探す二人の旅を中心に展開する。
出会えば別れを繰り返し、ある時は狐に捕まり、ある時は地獄に堕ち、ある時は人助けをし、旅を続けながら、棗は試練を乗り越え心を強くしてゆく。
身を挺して棗を助け、仙術?を駆使して困難を乗り切る河童さんの姿は感動的ですらある。

この手の話は、主人公二人の絆の深まりと能力の高まりが面白さのポイントなのだが、まさしくその王道を行くストーリーだ。
その点だけでも、十分に読み応えはある。
しかし、綿密詳細な異界の情景、人間の心の一番暗いところを抉り取るような描写、因業因果の果てに辿り着いた結末。
これらは花輪ならではの世界であり、他の誰も真似のできないものであろう。
長編ならではの主人公のキャラの立ち具合もいい感じである。

一見、全編に漂う大衆性のため、マニアックなファンからの評価は低い作品かもしれないが、エッセンスだけをぶつけたような短編にはない「物語」性が本作の魅力であり、花輪流王朝説話マンガの傑作だと思う。
これは、広くお勧め。

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2008年5月18日 (日)

「20世紀少年」

ひさびさのマンガネタだ。

今さらな話だが、浦沢直樹の「20世紀少年」を読了した。
連載当初から非常におもしろいと好評だったようだが、そのころはマンガ雑誌を買う習慣を止めていたので、完結したら一気読みしようと思って見送っていた。

浦沢については、折に触れて語っているが、マンガ的な絵のうまさとストーリー運びのうまさでは、現役のマンガ家でトップクラスではないかと思っている。
くすぐりを入れたり、人情話でちょっとほろっとさせて、一気にカタスロフに持っていく展開は、「うまい」というより「ずるい」と言った方が適切か。

初期作品の「パイナップルアーミー」から現在進行中の「プルートー」に至るまで、そのパターンは同じであるが、それでも読者を手玉にとる技術はますます冴え渡っている。
以前、毎週マンガ雑誌を7~8冊濫読していた時期、この人はスピリッツで「YAWARA!」とか「HAPPY」を連載していたのだが、ゆるいラブコメ路線がイヤで、あまり評価してなかった。後に「MONSTER」でそのうまさに気がつき、今では好きな作家の一人である。

さて、「20世紀少年」であるが、もうタイトルからしてキテるなぁ。
まんまマーク・ボランやんか。

ストーリーについては、恐らくあちこちで語られ、ヒット作でもあるので、読んだことのある人も多かろうし、またこれから読もうと思っている人の妨げになってもいかんので、ごくごく簡単に説明すると、ロッカーくずれのコンビニ店長が、世界征服を企てる秘密結社?と対決し、人類を救済する話である。
もう、これだけで、荒唐無稽文化財な話だってのがよくわかるが、これでこそ現代マンガだ、と思う。
細部に日常感覚を保ちつつ、非日常の世界に投企する人間の有様を、生活臭を漂わせた人物の群像劇として描いている。
リアリズムを保持したファンタジー。
しかも、広げに広げた風呂敷を、ちきんときれいに畳んだ腕前はさすがである(やや腑に落ちないところもあるけどね)。

さらに個人的に「やられた」と思ったのは、随所に散りばめられたキーワード。
「万博」「秘密基地」「予言の書」「ボーリング」「駄菓子屋」「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」・・・。
いずれも今Over 45くらいの人々にとっては、懐かしいものであろう。いや、ある種の人にとっては、「懐かしい」というより、人格形成の根幹になっているものではなかろうか。

わたしなんぞ、「万博」で提示された未来世界、テーマ「人類の進歩と調和」を子供心に深く刻み込んで、この歳まで過ごしてきたような気がする。
同時に例の「ノストラダムスの大予言」(本書では直接的には触れられていないけど)で21世紀までに人類は滅びてしまうという終末観を万博の数年後に植えつけられてしまった。
そのような価値観、世界観の揺らぎを少年期に体験した世代の物語なのだ。

学生たちが熱く革命を語り、イデオロギーが世界を変えると信じた世代と、世の中、お金がすべて、カネのチカラこそが世界を動かす、という経済至上主義的なバブルな世代のハザマにあって、価値観が揺らぎ続けた我々の世代にとって、目の前にあらわれ、ただただ「カッコイイ」と思い、信じられたものは、「ロック」だった。
そんな青臭いことを思わずにはいられなくなるような作品である。

「ロックの神様」って、いたんだろうな、と思っているアナタ、ぜったい本書を読むべきです。
これほど、「ロック」なマンガはそうそうないよ。

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2007年9月15日 (土)

「大王」

最近、マンガネタが続くなぁ。
別に暖めていたわけでもないけど、たまたまおもしろいものにあたったからかな。

Daiou

と、そういうわけで、先日の田中政志とはまた違ったタイプの作家のことなど。

黒田硫黄という作家だ。名前からしてインパクトあるなぁ。

田中政志がイタリアン・プログレだとすると、黒田硫黄はジャーマン・プログレだ。わけわからん喩えでごめん。
以前、なにかでこの人の絵が諸星大二郎の影響が感じられる、と読んだことがあり、それ以来気になっていたのだが、なかなかBOOKOFFに出回ってないらしく、ついぞ見かけることがなかった。
それが、最近、「大王」と「黒船」の2冊を入手。例の近所の古本屋だ。ここはBOOKOFFではないのだが、そのせいかかえってマイナーな本をよく見かける。
「怪談人間時計」が2冊並んでいたこともあった。日本広しと言えども、そんな古本屋なかなかないだろう。
そんなわけで、作家論を語れるほど読んでないんだけど、ちょっと感想文など。

さて、この「大王」であるが、一見して好き嫌いの分かれる絵だと思う。
とにかく描線が異常に「黒い」。きっと筆を使って描いているのだろう。
さらに画面を埋めつくすベタ塗りは、作品世界に暗い影を落としている。
それに反して、人物の表情は明るい。明るいというと語弊があるが、背景の暗黒との対比が独特の「空気」を生んでいる。
お話自体は、やや「不条理系」なのだが、人物が明るい顔をしているので、作品のトーンは決して暗くならない。
人物の輪郭を太い線で描き、細部に細かい線(けっこう雑に描いてあるが)で陰影をつける。そういうスタイルの絵が多いが、ペンの描線をのみ使った作品もあり、そのあたりは内容で使い分けているようだ。
女の子が主人公の話が多いのだが、どことなくその表情に宮崎駿の影響が感じられる。細かい描線による陰影のつけかたも、どことなく似てるなぁ。
そういえば、比較的最近、この作者の短編がスタジオ・ジブリ系の監督によってアニメ映画になったそうだ。見てないけど。

「大王」はデビュー作を含む短編集である。
これもストーリーの紹介をしても無意味な作品の目白押しだ。
例えば、「The world cup 1962」という作品は、

昭和37年、小学生の亀子は近所の悪童にいじめられていた。それをかばう彼女を慕う寺の小坊主、小林少年。
しかし、亀子は小林少年を嫌っていた。小林少年は、寺では住職から虐待を受ける身・・・。
などと説明すると、なんとなく滝田ゆうとかそんな感じの人情系、ほのぼの系のマンガかと思われるかもしれない。
しかし、その後、住職はなんらかの抗争に巻き込まれ腹部に銃弾を受ける。住職は、どういうわけか国防上の機密に関わる人物だったようで、「核戦争後の戦略システム」の鍵を小林少年に託して絶命する。
おりしも、中米カリブ海ではキューバ危機が勃発し、全世界を巻き込んだ核戦争が始まる。
「核戦争後の戦略システム」の鍵を握る小林少年は、亀子を救うべく夕餉の最中の彼女の自宅を急襲、拉致し、その鍵を開けるのであるが・・・。

てな、調子で、破天荒なストーリーというかなんというか。
他には、恋人に逃げられた女と、アパートの隣の部屋に住む象との交流(?)を描いた「象夏」だとか、地下鉄の駅からずっとつけてくる熊の話とか、蚊の恩返しの話だとか、そういう言語で説明してもよくわからない作品ばかりだ。
手塚治虫の「メトロポリス」を翻案した作品も収録されている。これも、レッド党のロボットを率いたミッチィが、廃墟と化したメトロポリスで、ケンイチ少年(浪人中)と野球をする、という素晴らしさ。
原作のクライマックス、「摩天楼での死闘」をきっちりはずした展開になっていて、作者の特性がよくあらわれているように思う。

一見、ハチャメチャな設定なのだが、どこか地に足がついたというか、登場人物の人としてのあり様がしっかり描かれていて、読み応えがある。
奇想天外なストーリーに翻弄されながらも、自分を見つめ、あるいは自分を探しながら行動し、泣き笑う登場人物たち。
かと言ってキャラクターに感情移入せずに、突っ放した視点で描き続けるスタイルにただものでない作家の力量を見る。
このあたりが冒頭に書いた、作品のトーンが暗くない所以なのだろう。

この作者の長編作品に「大日本天狗党絵詞」がある。
これも同じような作風は貫かれているが、話が長くなった分、散漫な印象は免れない。この作家のスタイルは中短編でこそ生きてくるのではないかと思う。

Tengu_2 Nasu_2 また、「茄子」という作品がある。
これは連作短編集なのだが、こちらは非常に日常的なシチュエーションで起こる出来事を淡々と描いた作品で、初期の破天荒さはないが、これはこれで味わい深い。
ただ、デビュー当初の個性的な絵柄がやや洗練されてきて、強烈なインパクトはない。内容にあわせて淡々と描いているのだろう。

あまり多作な人でないようだが、この作家も「見つけ次第購入」リストにしっかり入っている。

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2007年9月12日 (水)

「ゴン」

Gon_2 マンガというものは、つくづく絵が勝負だと思う。
当たり前といえば当たり前なのだが、内容とかかわりなく単に絵が好きだからという理由だけで、ついつい買ってしまう作家も少数ながら存在する。

古本屋で、105円棚を漁るとき、まず背表紙とタイトルに目がいく。
そこでピンと来るモノがない本は手に取ることがない。知ってる作家の本は別だけどね。
ピンと来て、ぱらぱらとページをめくり、買って帰って中身をじっくりと読んで、「嗚呼、また無駄金を遣ってしまった」と途方に暮れることは、ほぼ日常茶飯事である。
つまり、「ピンと来る」なんて感覚もいい加減だってことだ。
そんなわけでどーしょーもないマンガが書棚に増えてゆく。困ったモノだ。

そういう経験を積み重ねて、だいぶん学習した。
もうくだらないマンガは買わないぞ、と決意してBOOKOFFの門をくぐるのだ。
それでも、帰りには黄色い袋に入ったどーしょーもないマンガの数々・・・。
ちっとも学習してないやん。

かかる臍を噛むような辛苦を経て(えらく大仰だな)、最近は特定作家のみ探すようになった。
そういう作家の一人が、今回紹介する田中政志である。圭一じゃないよ。

この人の作品の特徴は、とにかく緻密に描き込まれた「絵」である。
恐らく1ページあたりの描線の数では、ダントツに日本一ではなかろうか、と思わせる描き込みである。
スクリーントーンやマンガの用語でいう「ベタ塗り」をほとんど使用せず、これだけの陰影と奥行きのある絵を描く人は、いまだ見たことがない。

この人の作品で有名なのが「ゴン」である。
恐竜(の子供)とおぼしき生物が、世界中の自然の中で、そこにいる動物たちと繰り広げる活劇を描いた作品だ。
出版時には結構話題になったし、古本屋でよく見かけるので、当時はそこそこ売れたのだろうし、見たことのある人も多いと思う。
自然界の動物が登場人物(登場動物?)なのだが、笑いあり感動ありのオトナでも子供でも楽しめる良質のエンターテイメント作品だ。
しかし、この作品は、いっさい言葉が書かれていない。すなわち映画でいうところの「サイレント」である。
従ってすべての出来事が無音の世界で繰り広げられるのだが、実は読んでいると脳内ではきちんと音が聞こえてくる。
それはすなわち「絵」の持つ力によるものだ。
その「絵」は、一見緻密であり写実的であるのだが、実は非常にマンガ的なディフォルメがされている。
青筋を立てたリスとか途方に暮れるライオンとか、その表情はマンガ的に豊かだ。
世界各国で出版され高い評価を受けたということだが、それも納得のいく話である。

・・・などと書くと、あまり刺激的でない絵本作家みたいなマンガ家と思われそうだが、そうでもない。

Upo_3 例えば「U.P.O.(未確認プリンス物体)」。
登場人物は人間であり、最低限のセリフや擬音もあるのだが、相変わらず「絵」の力は爆発的な作品である。
ストーリーの説明は、あまり意味がない。
第二次世界大戦のドイツ?から中世ヨーロッパまでメッサーシュミットでぶっ飛ぶ展開に説明など不要だ。
とにかく圧倒的な「絵」の力を味わうだけで、十分楽しめる作品だ。


また「ミス・マーベルの素敵な商売」。
世界史の様々な場面で出没するマーベル商会のセールスレディが、瀕死の戦士に、夕陽のガンマンに、複葉機の操縦士に、武器と勇気を与える話なのだが、その与え方が非常にエロティック(というかはっきり言ってスケベだ)。
いずれも、どうしたらこんな話をこんな絵で描けるの?という作品だ。
ある種の「過剰さ」が芸術の域まで達している作家である。

今後も、この作家の作品は105円棚で見つけ次第ゲットしようと思う。

Mismarbel_3   

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2007年9月11日 (火)

田中圭一マガジン Comicサイテー

ひさびさにマンガネタです。

わたしの周りのごく一部で、そのサイテーさ加減で圧倒的支持を受けている田中圭一というマンガ家の(おそらく)最新作品集だ。
近所の古本屋でひときわ目を引く背表紙。
これは逡巡する余地もなく買わざるをえない。

で、内容はというと、サイテーマンガ満載で、決して期待を裏切らない。
地球征服を企むボンノー星人と局部を露出した人体強化スーツで戦う「ハンラ・ウーマン」だとか
傭兵部隊の隊長が退役後、小学校に入学し、級友や先生と繰り広げる破天荒な日常を描いた「ブラディ・キッド」だとか
歩美ちゃんが拾ってきた子猫(なのだが広島のヤクザさんが子猫の着ぐるみをかぶっているようにしか見えない)と家族の交流を描いた「子猫のミィちゃん」だとか
もう、こうして書いているだけでも悲しくなってくるようなサイテーさ加減である。
こういう話が例によって端正な手塚絵や豪快な本宮絵で繰り広げられる。

・・・こういうのをおもしろがっていて人間としてよいのだろうか、としみじみ思いつつ秋の夜長は更けゆくのであった。

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2006年10月19日 (木)

「かっこいいスキヤキ」

という訳で、先日言及した「わがマンガ読み人生」に多大な衝撃を与え、いまだに個人的にはギャグマンガランキングのトップを独走し続けている、泉昌之の「かっこいいスキヤキ」である。

Groovysukiyaki こんなところで、拙い感想文なんか世間に公開するのは畏れ多いし、本書を未読の人が、この駄文を読んだために不要な予断を持ってしまったらダメじゃん、と思うところではあるが、前回記事を書いた勢いで、無謀にも、この稀代の傑作を語ってみよう。
ちなみに泉昌之というのは、作画担当の泉晴紀と原作?担当の久住昌之の二人のペンネームだそうだ。

本書は83年に初版発行されており、わたしの持っているのは85年第五版なので、結構たくさん印刷されたようである。本書は、確か85年の夏ごろ(まだ大学生だった)、京都は北大路にある某書店で、その奇妙なタイトルに惹かれて、何気なく手にしたものである。当時は、立ち読み防止の包装などという無粋なものはなかったので、気軽に立ち読みできたものだ。冒頭の「夜行」という作品をパラパラと読んでみると、ぐいぐいと話に引き込まれていく。息を凝らして、震える指を抑えてページをめくる(大げさだな)。そして、一度でもこの作品を読んだ人なら絶対に忘れることのできない(と思う)、あのオチを目にしたとき、本屋の中であるにもかかわらず、爆笑してしまった。もう、間髪を入れず、レジに走ったものである。今と違い、貧乏学生にしてみれば、850円といえば、そこそこの大金である(かなりゴージャスな晩ごはん代相当だね)。それでも、惜しいとか全然思わなかった。

内容を語らずに、わたしの個人的な感動をいくら述べても、説得力もなにもないので、本書の内容について、簡単に説明しておく。
恐らく泉昌之のデビュー短編集だと思うのだが、81~83年に「ガロ」「宝島」などの雑誌に掲載された作品を14編収めている。う~ん、当時の「ガロ」「宝島」といったら、いわゆる「サブカル」系の総本山みたいなところだったと記憶しているが、まあ、そういう若干アングラな媒体で発表されたものである。
まず、オープニングの「ガチョーン」があり、おもむろに「夜行」が始まる。
劇画調ともアメコミ調ともイラスト風とも見える独特の重苦しい絵柄で、夜行列車で旅をするトレンチコートにソフト帽のハードボイルド風の男が描かれる。彼は、これから駅弁(400円)を食べようとしている。話は、男の弁当を食べながらの独白で進んでゆく。彼は、とにかく自己の美学に則って弁当を食べることに集中している。しかし、食べ進めるうちに、予想外の事態により、それまでの至福の弁当タイムが窮地に陥る。そして一発逆転を狙った最後の砦に手をかけたとき、最後のどんでん返しが訪れ、破滅的なエンディングを迎えるのである。
あぁ~、全然説明になってないなぁ~。自らの文章力のなさを呪うばかりである。もう、とにかく読んでみてください。読まなきゃわからないから。一時期、文庫版も出ていたし、そっちはBOOKOFFでもよく見かけるので、比較的入手しやすいと思う。
「夜行」以外には、同様の趣向であるが、鍋を囲む「せめぎあい」の要素を付加し、さらに緊迫感あふれる人間ドラマに昇華した「最後の晩餐」、円谷プロに抗議されたとの噂もある一連の「ウルトラマン」もの、奴隷制度の悲劇を描いた感動編「ARM JOE」、生理欲求と戦う男の惨劇を描いた「ロボット」など、一編一編が、独自のギャグ様式を確立している傑作群てんこ盛り(とまで言ったら言い過ぎか)である。

今でこそ、劇画調の絵柄でギャグマンガを描く人もめずらしくないが、その嚆矢となるのが、この作品であろうと思われる。また、当事者以外には理解不能な日常の瑣末なことに徹底的にこだわることのおかしさ面白さを、執拗に描写する作風も、当時としては非常に斬新であったと思う。
これ以前は、ギャグマンガといえば、日常の中に非日常が侵入してくることにより発生する摩擦、歪み、軋轢が笑いを誘うという感じだが(わかりやすい例だと「天才バカボン」とか「まことちゃん」とか70年代のギャグマンガの傑作はそういう構図になっていると思う)、それに対して、本作は日常からスタートして、こだわりにこだわりを重ねていったら、終着点は日常とかけ離れた地平にまで到達してしまいました、みたいなおかしさを描いている。当時としては、非常に新しいセンスではなかったろうか。その点で、あの妙にリアルな絵柄は、必要不可欠な画法であったと理解できる。

その後、「プロレスの鬼」「感情的」「真剣なサル」(泉晴紀名義)などの作品を読んだが、どうも笑いのパターンが類型化してしまい、本書ほどのインパクトは得られなかった。残念である。「ダンドリ君」で、ややメジャーになったりしたが、これは本書で提示した新しい方法論をソフィストケイトして、再生産したかのような印象を受け、それ以降、この人の作品は読まなくなってしまった。

なお、この「夜行」は、テレビで映像化されたこともあったようだが(ビデオに録ったのだが)、なんとなく見ることができなかった。たとえ実写で映像化しても、最初に本屋で立ち読みしたときの衝撃は得られないだろうし、通常、テレビでの映像化が原作を超えることはないと思ったからである。

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2006年10月17日 (火)

「神罰」

Sinbatu_2 日常的に古本屋さんに足を向けていると、なんとなく本の方から「おい、俺を手にとってみろ」と声をかけてくるような佇まいの本がたまにある。文庫本なんかだと、背表紙のデザインが出版社ごとに統一されていて、あまりそういう呼び声は聞こえないのであるが、マンガ本は、作品ごとに背表紙も意匠が凝らしてあるので、そういう主張が聞こえてくるのである。
で、本作品もそういう類の本である。たまたまこの本を見かけた書店は立ち読み防止のために包装されているので、中身は見えないのであるが、マンガ棚に「神罰」という書名はかなりインパクトがある。いや、背表紙は極めて地味なデザインなんだけど、すごく惹かれるものがあって、手にとってみた。
そうしたら、この表紙である。言わずもがなだが、神様「手塚治虫全集」の装丁をパクっている。というか、これはパロディだね。思わずその場でのけぞってしまった。ちなみに画中の犬が「お願いです訴えないでください!!」と訴えているが、実は本書の帯には手塚るみ子(治虫の実娘)による「訴えます」というコメントが手書き文字で掲載されていたようである。

しかも裏表紙のイラストがこれだ。
Sinbatu2 これはもうわたしに買ってくださいと言わんばかりではないか。
しかし田中圭一という作者は、まったく知らない。ちょっと逡巡したが、これこそ一期一会かもしれない、と思い、レジに持って行った。
家に帰り、ワクワクしながら包装を解いて、読んでみた。
「田中圭一最低漫画全集」の名に恥じないサイテーなマンガがこれでもかこれでもかと繰り出されるさまは壮観であり、本気で笑ってしまった。
例えば、こんな話である。
亡くなった神父様からすし屋を引き継いだ尼僧が、開店初日に海苔を切らしてしまい、鉄火巻きが握れず、身悶えして神に懺悔する話とか、二人の恋人(マサト君と君恵さん)の別れのシーンで、実は君恵さんはにょにょ星からやってきて人類を監視する宇宙人であった(が、なぜか金沢の実家に帰ってしまう)という話とか、由香ちゃんに密かに憧れる少年の前にあわられた愛のキューピット「イチヂク坊や」の放つ矢が胸に突き刺さった由香ちゃんが、失血死してしまう話とか、この種の果てしなくしょーもない話が、実に忠実に再現された「手塚絵(しかも70年代の)」で描かれる。しかも、タイトル文字、書き文字、コマ割りに至るまで、きっちり手塚調になっている(これだけきっちり真似られるということは、この作者の画力と手塚に対する愛情が相当のものであることを物語っている)。
その他、永井豪風、藤子不二雄風、本宮ひろし風の絵で描かれる、もうどーしょーもない下ネタお下劣ギャグの嵐。う~む、これはひょっとしてすごいかもしれない。

巻末に作者としりあがり寿との対談が掲載されているが(実はしりあがりの初期作品はわたしの愛読書である。これらについては、別項でまた語ろうかな)、そこで、両者、パロディについていろいろ語っている。その中で、両者とも非常な影響を受けたマンガ作品として泉昌之の「かっこいいスキヤキ」を挙げている。うわ、実はこの作品、これこそがわたしのマンガ読み人生に大きな衝撃を与えた作品である。この作品に出会わなければ、現在のマンガ読み人生はなかった、と断言できる一冊である。いまだにこれを越えるギャグマンガとは出合っていないような気がする。これも、また別項で語ろうかな。

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2006年9月11日 (月)

「寄生人」

「七夕の国」の感想文を載せたら、次は「寄生獣」がきても、むべなるかな、って感じだが、そこはあえてはずして、紛らわしく「寄生人」である。

Kiseijin0 先日、京都駅南側の某古書店に立ち寄った。例の「人間時計」が売っていた店である。「まだ売ってるかな~」と思って見てみると、ありゃ、まだ売れてないや、う~む、なかなかレアっぽいし、もう一冊買ってみるかな・・・などとバカなことを考えていると、「人間時計」と同じ太田出版から出ているQJマンガ選書の一冊「寄生人」(つゆきサブロー著)なる本が置いてある。うわ、また変態マンガが俺を呼んでいる・・・。
手にとって見てみたが、この店では、立ち読み防止のため商品は包装されているので、中身までは見えない。そんなことしているから、子の店ははやらないのだよ。いつ行ってもお客さん少ないし。
しかし表紙のインパクトだけで、十分買うに値すると判断して、レジに持っていった。

つゆきサブローと言う人も「寄生人」という作品も、全然知らなかったのだが、絵柄は貸本時代の水木しげるによく似た感じで、いかにも1960年代初頭の雰囲気を醸し出している。本書の冒頭に水木しげるのインタビューがあったり、貸本として出版されたときには装画を水木が描いたそうで、なにかと交流のあった人らしい。つゆきサブローというのはペンネームで、本名?杉本五郎として現代美術家、フィルムコレクターとしてその筋では非常な偉人だそうだ。

作品についてだが、ストーリーは、なんだかよくわからないし(シュールとかアバンギャルドとかいうのともちょっと違う。むしろ怪奇モノなのだが)、絵も今のマンガを見慣れた目で見ると、違和感だらけ(あえて稚拙といっても差支えなかろう)の絵ではあるが、ところどころで見せる廃屋の風景や恐れおののく主人公の表情など、洗練されていないためにかえって異常な迫力を生んでいる。特に作品の最後の方で、とうとう主人公を乗っ取った「寄生人」が主人公の頭蓋をこじ開けて外に出てくる絵などは、まぁ常人の描いたものとは思えない(しかも、これが1ページひとコマなのだから、ちょっと凄まじい)。ストーリーについては、説明や紹介するのも、なんだか無意味な気がするので、省略。
併録されている「ミイラ島」という作品も、これに輪をかけて、わからん話なのだが、こちらは、なんとなくコミカルな部分もあり(とは言っても話はこれまたグロテスクなのだが)、もう少し薄味に仕上げたら初期手塚マンガ風の冒険活劇にでもなりそうな雰囲気ではある。しかし、少年少女のミイラの頭部を回路の一部としたコンピューターを作るマッドサイエンティストの支配する孤島、って、なんかそのまんま江戸川乱歩の世界みたいだなぁ。・・・この子供の脳髄を利用してコンピューターを作る話って、どこかで読んだことがあるな、と思ったら大塚英志の「木島日記」に同様なプロジェクトの話があった。大塚が「ミイラ島」にヒントを得たのかもしれない。

Kiseijin2 また、杉本五郎という人は日本ロリコン史における先駆者であり偉人でもあったらしい。このことは本作とはあまり関係ないようであるが、「ミイラ島」に登場するルミちゃんなる人物が、いかにもロリコンな人が描いたような絵になっていて、他の登場人物と一線を画しているのが興味深い。あ、残念ながらわたしはロリコンの趣味はないので、それほど萌えませんでしたが。(左の画像の少女がルミちゃんである、ってこんな風に画像載せちゃっていいのかなぁ?)

Kiseijin1 さらに巻末の解説で俳優の佐野史郎も触れているのだが、「寄生人」の作中に(20ページ)みられる老婆の絵が、つげ義春の「ねじ式」の老婆の絵と酷似している。最初見たときに「あ、これってつげのマネ?」と思ったのだが(水木の絵をマネている雰囲気が強く感じられたので、そう思ってしまったのだが)、考えてみると「寄生人」は61年ごろ「ねじ式」は68年の出版なので、むしろつげがマネしたのか、あるいは共通の元ネタがあったのか。つげは一時水木のアシスタントをしていたのは有名な話であり、水木とつゆきが友人であったことを考えると、そういう元ネタが存在することの可能性は非常に高いと思うが、どうなんだろう(多分、既にマニアな人が検証しているのだろうなぁ)。

Nejisiki1 Nejisiki2 ちなみに「ねじ式」の当該箇所はこれ。

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2006年9月 9日 (土)

「七夕の国」

岩明均の代表作「寄生獣」がハリウッドで映画化される、という報道があってから、かれこれ1年は過ぎてしまった。今となっては、「そういう報道があった」のか、「そういう報道があったという噂があった」のかも定かでないが、とにかく、その後どうなったのか、さっぱり続報がなく、気になるところではある。
岩明というマンガ家は、とにかく寡作な人で、1985年にデビューして以来、出版された作品は発表順に「骨の音」「風子のいる店」「寄生獣」「七夕の国」「雪の峠/剣の舞」「ヘウレーカ」「ヒストリエ」、これだけのはずである。このうち、4つは短編集など一巻完結のもの、あるいは一話完結の連作だから、いわゆる長編作品は「寄生獣」と「七夕の国」のふたつだけとなる。現在、唯一進行中の「ヒストリエ」は2003年に連載開始して、昨年秋に3巻が出版されたところである。我々が生きているうちには、完結しないのではないかと噂されている。この人はアシスタントを使っていないそうで、これも寡作の要因なのだろう。

Tanabata  「寄生獣」という稀代の傑作の次に発表されたのが、本作である。
本作については、雑誌連載時から読んでいたのだが、途中からマンガ雑誌を買わなくなってしまったので(とにかく増えて増えて収集がつかなくなったのである、って捨てりゃいいじゃん)、話がどう決着したかを知らぬまま数年が過ぎてしまった。先年、某古書店で発見し(というか、どこのBOOKOFFに行ってもだいたい置いてあるが)、買って帰り、やっと結末を知ることができた。
その後、訳あって手放してしまったが、先般とうとうこらえきれずに一気買いをしてしまった(と言っても4巻本だからたいしたことはない)。

本作に対する世間の評価は、思いのほか低く、どうしても「寄生獣」との比較されて、「あれに比べたらねぇ」という感じで語られてしまう。まぁ、単純に冊数だけで言っても「寄生獣」の40%しかないし、作中に語られるエピソードが少なく、その割りに結構手の込んだ謎解きを仕掛けているので、どうしても中途半端な感じは拭えない。しかし、規模の大きいテーマを扱っているので、普通の作家なら、話の風呂敷をどんどん広げたくなるだろうと思われるところであるが、「寄生獣」と同様に、主人公の日常の範囲内でストーリーをきっちり完結させている。従って、この種の超常現象を扱った作品にありがちな、後半なんだか訳のわからない展開になってぐだぐだになってしまう、ということがない。このあたりの構成の手際よさ、ストーリーテラーとしての岩明の優れた資質をみる思いである。

ストーリーを簡単に紹介しておく。一見普通の大学生で気の進まぬ就職活動にあせりを感じている主人公、南丸君は、実は「丸神の里」という地方都市の神官の血を引き、特殊な能力を持っていた。失踪した大学教授とそれを追うゼミの教官、学生たちとともに南丸君は「丸神の里」に乗り込み、そこで意外な出来事と遭遇することになる。一方、南丸君と同じだがはるかに強力な特殊能力を持った人物が東京に出現し、世間を騒がせ、果てには国家レベルの大事件を起こしてしまう。と、こんな話である。
作中にちりばめられた「窓をひらいた者」「手がとどく者」「七夕祭り」これらの謎が解き明かされ、「丸神の里」に関するとんでもない歴史が語られても、やはり主人公は日常にとどまり続けようと熱弁をふるう。話のスケールの大きさと登場人物の視点の日常的リアルさ、この落差が、いかにも岩明作品らしいテイストを醸し出している。ただ、腑に落ちないのは、作品の冒頭で登場し、なかなかいい味を出していた亜紀という女学生が途中からまるっきり出てこなくなったというところ。岩明は、ストーリーをきっちり組み立てて描いている人だと思っているのだが、この人物に関してだけは、計算外だったのだろうか。

また、この作品のカバーデザインがよくって、4冊並べると、非常にいい感じです。
「寄生獣」は読んだけど、こっちは読んでないなぁ、という方は世間にたくさんいると思いますが、そういう人に強くお勧めしておきます。

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2006年8月26日 (土)

「怪談 人間時計」

「消えたマンガ家」というルポ本で、その存在を知って以来、読みたい読みたいと思っていたのが本書である。徳南晴一郎というマンガ家の作品で、1960年代初頭に出版されたのであるが、今回入手したのは、今から10年ほど前に出た復刻本である(「怪談 人間時計」と「猫の喪服」の2編を収録)。徳南の人となりについては、「消えた~」に記述があるが、相当偏屈な人らしい。本書を出版してから数年後、マンガ界とはすっぱりと手を切って、職業を転々されたそうな。

Kaidan 「奇書」といわれるだけあって、さすがに強烈なインパクトがある。まず絵が尋常でない。徳南は正式に美術教育を受けた人らしいので、一見へたくそに見えるこの絵も、意図的に神経症的、強迫的にコワレタ絵を描いているのであろう。ムンクやエゴン・シーレを思わせる歪んでささくれだった人物。ベタ塗りを多用し、漆黒の闇を宿した街の風景。グニャグニャして、不安感を煽る書き文字。さらにぶっ飛んだストーリー。脈絡なく進展する物語。伏線かと思わせて、結局何も結実しないプロット。登場人物はほとんどすべて、その行動、思考、風貌いずれも常人の理解を超えている。実例を挙げていったら、きりがないので、ここでは詳述しない。とにかく、ほとんどありえない作品である。マンガ史上、特筆すべき作品であることは疑いない。というか、マンガがまだ手軽な娯楽だった時代にこのような作品が出版されたこと自体が驚異である。

まぁ、わたしの拙い説明では、到底この作品のすごさは伝わらないだろうから、いい加減にしておくが、つげ義春「ねじ式」より数年前にこのような作品が世に出ていたとは、マンガの世界は奥深いものだ。

この本を探して、大型書店、古本屋などを巡ったこともあるが、某オークションで、簡単に見つかって、安値で落札できた。ほんとオークションって便利だなぁ~。と、思っていたら、近所の古本屋に、ちょっと高値だったが、ぽつねんと置いてあった。振り込み手数料や送料を考慮すると、こっちの方が安いな。ちょっと悔しい。

同じ作者の「ひるぜんの曲」という作品集もあるが、こちらはティーンエイジャー向け?の青春マンガ集である。が、話はどれも奇妙に歪んでいて、まぁ、突っ込み対象として相当おもしろい。しかし、本書でもやはり強迫的な風景が描かれている。作者の心の歪みっぷりがうかがわれる興味深い本である。

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2006年8月19日 (土)

「洗礼」

このブログを始めてから、マンガネタが続いているなぁ。まぁ、平均したら週に3冊ずつくらいのペースで増えていっているから、ネタにはこと欠かない状態が続いているという訳だ。

さて、標題の本についてである。

「洗礼」 楳図かずお

Senrei2 なんで今更楳図なの、と思われるだろうが、子供のころからあの絵が怖くって読めなかったのである。オトナになってからも、なんとなく怖くって敬遠していたのであるが、最近やっと読めるようになった。で、読んでみたら、こんなにすごかったのか、これは人生の機会損失だった、と激しく後悔している今日この頃である。

楳図先生といえば、「漂流教室」が一番の代表作だろうが、最近楳図作品をいろいろ読んでみると、あれはやや異色なのではないか、と思うようになった。執筆時期にもよるのだろうが、やはり楳図の楳図たる最大の魅力は、「ほんとに怖いのは人間」というテーマを徹底的に描いていることではないかと思う。恐怖マンガと言いつつも、幽霊や妖怪の類は、あまり出てこないのよね。その点、「漂流教室」は、あの突拍子のない状況に学校ごとふっ飛ばされてしまうこと自体が相当怖い話なので、そのテーマがやや希薄に感じられるのである。もちろん、あの異常な状況でも、やはり人間の恐ろしさを徹底的に描ききるスタイルは貫かれていると思いますが。

「洗礼」は、かなり有名な作品なので、読んだ人も多いと思うが、これほど人間の怖さを描ききったマンガはないのではないか、と思わせるほどである。同時に人間の愚かさ、悲しさ、う~ん、なんと言うか、まぁ、そういうもろもろのものを文庫本4冊の中で、これでもかこれでもかとばかりにわれわれの目前に突きつける。あまりに度を越しているので、「怖い」というより「笑っちゃう」というところまで行ってしまっている。よく言われることだが、「恐怖」と「笑い」は紙一重ってやつでしょうか。しかしながら、登場人物のイケメン・ルポライターの長い独白の後、背景がまっ黒になり、一瞬の沈黙の後、突然駆け出しながらつぶやくセリフ「そうさ この世に希望と知恵がある限り 人はいつも罪深い・・・」。う~む、なんか芥川龍之介あたりのアフォリズムになりそうな、意味深長な言葉だ。深いなぁ~。

この作品に限らず、楳図作品に登場するヒロインは例外なく恐怖のどんぞこに落とされるのであるが、これまで見たマンガ作品(楳図作品に限らず)の中で、最大級と思われる「恐怖のどんぞこ」顔がこの作品にはある。小学館文庫版の第一巻168ページ上段で、ヒロインさくらが頭髪を剃られ手術台に縛り付けられ、その横で医師が母親に麻酔針をぶすぶすと刺しているコマである。沈黙の中で、一見笑っているのか泣いているのかわからない表情でこちらをむいているさくらの表情は何度見ても見飽きない。さらに175ページ最終コマでは、ほとんど同じ表情をしている。小さいコマに描かれているので、わかりにくいのだが、このような小さなコマに描かれているから、却って彼女の感じている恐怖と痛み(このとき、彼女は足に麻酔針をぶすぶすと刺されている)をリアルに感じることができる(ような気がする)。この前後、医師が針を刺す「ブスーッ」「ブスーッ」という音だけが続き(針を刺す音が「ーッ」と伸びるのもすごいが)、さくらの悲鳴は聞かれない。もはや声も出ない状態なのだろう。

・・・とまぁ、こんな調子でディーテールの感想を述べて言ったらきりがないので、やめておくが、とにかく読みどころの多い作品である。あぁ、疲れた。

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2006年8月18日 (金)

「陰獣トリステサ」

さて、先日のBOOKOFFネタも今回で3回目。

「陰獣トリステサ」 池上遼一

Tristeza 池上遼一というと、個人的には一時期スピリッツに連載していた小池一夫原作の一連の作品の印象が強いのだが、これは原作なしの幻想作品集。タイトルからして、なにやら淫靡な雰囲気がプンプン漂ってくる。実際、この短編集は、かなりエロティックで倒錯した作品で占められており、小池一夫原作のオトコ臭いイメージと全然違うので、非常に新鮮に感じた。

夏目房ノ介だったか、マンガ評論を書いている人が、池上と大友克洋の絵の比較を論じていて、なるほど、と目から鱗が落ちた経験がある。確かに池上の絵は非常に写実的で、かつ肉体的であるが、必ずしも現代的ではない。むしろ劇画世代の究極の到達点という印象がある。しかし、一見非常に緻密に見える絵であるが、よくよく見ると、描線を極力省略して、微妙な陰影で面を表現していることがわかる。そう思って見ると、単に「劇画」的ともいえず、きわめて独自のマンガ手法を用いているような気がする。

さて、本作であるが、まぁ、よくもこれだけ次から次へと倒錯したイメージが湧き出てくるものだ、と感嘆する。しかも、その描写は、あの池上絵で濃密に描かれている訳で、もちろんエロティックで淫靡なんだけども、不潔な感じがしない。絵がうまいというのは、こういうことなのか、と思ってしまう。しかし、ほとんどの作品が90年代のものだが、表題作だけが70年代のもので、たしかにこれだけ絵も雰囲気も異質である。いわゆる劇画的な描線で緻密に描き込まれているのである。すると、途端に不潔な感じがしてくるのだ。まぁ、ストーリーも、かなりおぞましい話だからねぇ。20年の間にこの人の絵は、だいぶん変わってしまったのだな、と今更ながら感じる。パッと見た感じは、例の典型的な池上絵で、昔っからうまい絵を書く人だな、という印象を与えるが、画面に漂う雰囲気は、これほどまでに違う。

この人の絵のもうひとつの特徴は、「動き」が感じられない、というところだと思う。それはダイナミックなマンガ的表現ができないということではなく、絵の一枚一枚が、あたかも彫像を描きとったかのような印象を与えるということである。それは、写実的であろうとするあまりマンガ的ディフォルメを排しているからであろう。このあたりも、独特の池上絵の質感のもとになっているのではなかろうか。

な~んて、作家論みたいな慣れないことを書いてみたから、支離滅裂な文章になってしまった。よくわかんないから、もういいや。ちなみにこの本は550円の値札が貼ってあったのだけど、店員さんが間違えて105円でレジを打ってくれた。ちょっと得した気分(せこっ)。

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2006年8月16日 (水)

「入神」

さて、日があいてしまったが、先般入手した本の話その2である。

「入神」 竹本健治

カバーが碁盤をあしらったデザインで、一見して囲碁をテーマにしたマンガだとわかる。「陰陽師」を読んで以来、「碁」にちょっと興味があるので(とはいっても、ルールはほとんどわからないのだが)、手にとってみた。

はっきり言って、失礼ながら相当へたくそな絵である。よくある自治体のPRマンガみたいなゆるい絵柄だ。「なんじゃこれは」と思って作者紹介を見てみると、この竹本某はミステリー作家として著名な人らしく、どうやらもともと漫画家志望だったのが、ひょんなことで作家になってしまった人だそうだ。さらに、この人、文壇の囲碁の強豪だそうだ。ひょっとしたらおもしろいかも、と思って買ってみた。

Nyusin_1 つくづくマンガのおもしろさと絵の巧拙は比例しないことを感じた。はっきり言って、これはおもしろい。囲碁のことはよくわからないが、それでもおもしろい。「マンガ」表現としてのおもしろさとは違うかもしれないが、読み物として、スリリングに展開し、コンパクトに転結するきれいな作品である。秀逸なエンターテイメントである。

話は、プロ棋士である主人公とそのライバルである天才棋士の対局を軸に、囲碁の解説、主人公とその恋人との葛藤、棋士仲間の友情、ゆる~いギャグなどを織り交ぜて、進むのであるが、数少ないエピソードで、登場人物のキャラクターをうまく表現して、冗長なところがなく、やはりストーリーテリングのうまさは、作者が小説を本業にしているだからこそ、と思われる。特に、主人公は天才であるがライバルをそれを上回る天才(「囲碁の神様がそばにいる」と評されているが、見た目は全然そんな風に見えない)という設定が絶妙である。

また、「へたくそ」などと失礼なことを書いてみたが、主人公たちの対局中に現れる幻視の描写は、なかなか凄みがある。「もう対戦相手もいない 誰もいない 世界は 盤と石だけだ」と主人公が独白するシーンなどは、なるほど棋士は対局中にこういうものが見えているのだ、と納得してしまうほどのパワーがある。自分が囲碁や将棋などを全然嗜まないものだから、常々、こういう人たちは何を考えながら碁を打ち、将棋を指しているか疑問であったが、その疑問に対する答えを垣間見た気分である。

「ネタ」のつもりで買ってみた本であるが、不覚にもかなり引き込まれてしまった。ちなみに喜国雅彦、高野文子、綾辻行人、京極夏彦、島田荘司、谷山浩子、法月綸太郎など著名な漫画家、作家が作画協力しているようである。

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2006年8月12日 (土)

「真・黙示録」

今日は(というかもう昨日だ)、ほとんど一日自宅に引きこもり、バンド用デモ音源の作成にかかった。前に作った打ち込み音源だけだとどのように歌が入るのかがわかりにくいので、MTRに打ち込みデモを録音して、ついでにギターパートをダビングして、オケを作成。夕方から近所のスタジオに入り、仮歌を録音。なんか昔々に一人バンドしていたころを思い出す。一応3曲分は、完成したが、いつ聴いても自分の声は好きになれない。音程が不安定な上に、もごもごした声で、気色悪い。やはり、自分で歌うのはやめよう、と思う。

さて、昨日BOOKOFFで入手した、ちょっと傾向の変わった本を紹介しよう。まず一冊目。

「真・黙示録」 原作・深見東州 画・森義一、小島剛夕

105円マンガ棚にマンガサイズと違うハードカバーの本があると、なんとなく目立つ。これがまさにそうで、一見して興味をそそる。しかもタイトルは「真・黙示録」ときたら、これはとりあえず手にとってみるしかあるまい。

Sinmokusiroku こんな風に、マンガ本とは明らかに風情が異なる。どうみてもトンデモ本か新興宗教関係の本である。いや、実際、新興宗教本なのですが。

まぁ新興宗教の教義や教祖の生い立ちなんかをマンガにした本はめずらしくもないが、これは、なんといても小島剛夕が描いているという点でポイントが高い。そう、あの「子連れ狼」で有名な時代劇画の小島先生ですよ(先般お亡くなりになられましたねぇ)。

本書は小島画「すめらあいす 橘カオル物語」と森義一画「み・ろ・く神話」の二編で構成されている。森義一という人は全然知らないが、調べてみると、かつては麻雀劇画を多く描いていたようだ(ほとんどが絶版になっているが)。この人の絵は、いわゆる大人劇画の絵で、矢島正雄あたりが原作の作品を書いていそうな雰囲気の絵ではある。端正で達者ではあるが、特に個性があるわけでもない。いや、そんな話はどうでもいいよな。

Sinmokusiroku1 本書を開くと、いきなり写真のページがあらわれる。なんと袋とじになった「夢判断」である。なんで袋とじなんだろう?しかも未開封。開封するのも惜しいので、隙間からのぞいてみると、「桃・栗を食べる夢<大凶> 身近な人と別れる夢 死別もある」なんて書いてある。さっぱり根拠がわからないが、まぁ、夢判断なんて、こんなものであろう。

で、本編についてであるが、「すめらあいす」はこの原作者深見氏が主宰する宗教団体「ワールドメイト」の開祖?橘カオルなる人物の伝記である。

東京大空襲の場面から物語は始まるのであるが、やや唐突に出口王仁三郎に言及されている。本書を通読するとなんとなくわかるのであるが、この「ワールドメイト」なる団体は出口の「大本教」と成り立ちが共通する部分もあり、そのあたりを意識しているものと思われる。主人公の少女カオルは空襲の脅威から謎の老人の加護により脱し、その後(どういう訳か)小動物を意思の疎通ができるようになる。さらに円盤状の発光する飛来物から降りてきた人物と接触し、観音菩薩のひざに乗り・・・などと書いてみても、おそらく何のことやら理解しがたいと思われるので、ストーリーは省略。簡単に説明すると、成人したカオルはどえらい不幸に見舞われるが、神仏の加護により、その不幸を克服し、最高神「スの神(うずめ観音?)」より「すめらあいす(皇愛主)」の神名を授かる、というお話。なんのことやら。

このような、荒唐無稽というか神人合一というか、なかなかおいしいお話を小島剛夕の重厚なタッチで描かれると、なるほど、説得力がある・・・のかなぁ?この人は人物の細かな表情や動物のしぐさなどを描くと、さすがと思わせるものがあるが、物語の後半で突然蛇が変化したドラゴン(どうみても竜には見えない)と、これまた突然飛来した青年(この人が原作者の深見氏らしい)との「激闘」シーンは、う~ん、手を抜いているとも見えなくもないが、こういう超自然なものが描けない人だったのかな、と思わないでもない。この激闘シーンの最後に、ドラゴンを粉砕した青年がヒョロヒョロと空に帰っていくシーンの脱力感はすさまじいものがある。

「み・ろ・く物語」は、原作者深見氏が建設会社の営業マンとして活躍するかたわら(アプローチしている会社の社長さんにストーカーまがいの営業を仕掛けて、とうとう注文をとってしまうエピソードが描かれている)、何かよくわからないが道場で修業を重ね、日本一の霊能者となってしまい、そして橘カオルと出会い、「ワールドメイト」を創設するまでの経緯が描かれている(のだと思う)。で、またここでも後半に唐突にドラゴンが現れ、深見氏と激闘を繰り広げるのである。

和服姿の上品な婦人であるカオルが突然マリー・アントワネットみたいな服装になって、「さぁ、これが銀河系宇宙の波動です!!」と手にした杖の先端からビビビビ・・・と光線を発すると(まるでセーラームーンの必殺技だ)、深見氏が突然白髪の老人になってしまい(どうもこれが「すめらあいす」の冒頭でカオルを救った謎の老人のようなのだが、一体この人たちの住んでいる世界の時間軸はどういうことになっているのだろう?)、カオルと深見氏の霊力を恐れた「この世の邪悪なるもの」が襲いかかってくるのである。なんのことやらわかりませんね。

Sinmokusiroku3こっちは画を載せちゃおう。こんな感じで、ドラゴンというよりも東映の特撮ものに出てくる怪獣って感じですね。しかし、ほんとにビルとか壊しちゃって、単なる霊能者の幻視ですんでないところがすごい。この怪獣、ビルよりだいぶん大きいので身長100mくらいありそうだが、結局、再度カオルの「波動」を受けて巨大化した深見氏によって一刀両断されてしまうのであった。なんか、すごい話だなぁ~。

という訳で、女性霊能者を創始者とし、その一番弟子みたいな人が指導して大きくなった教団という点で「大本教」に似ているのかな、と思ったのですが、いやぁ~、ちょっと違うかな。

というのは、巻末に深見氏の著作紹介が掲載されているのであるが、それを見たからである。その書名をいくつか挙げてみよう。

「金しばりよこんにちは」 フランソワーズ・ヒガン著(深見東州ペンネーム)

「吾輩は霊である」 夏目そうしき著(深見東州ペンネーム)

「悪霊おだまり」 美川憲二著(深見東州ペンネーム)

「パリ・コレクション」 ピエール・ブツダン著(深見東州ペンネーム)

・・・絶対この人、まじめに宗教家やってないよね(でもちょっと読んでみたい気もする)。

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