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2011年10月25日 (火)

【温故知故】Budgie / If I Were Brittania I'd Waive the Rules

ブリティッシュB級鋼鉄王バッジーの6thアルバム(1976年)である。

昔々にラジオで聴いたけど、曲名がわからず、何年も聴けないままに過ごした曲ってのが、たまにある。
その曲を気に入ってしまっていたら、ずっと気になり続けることになる。
「あ~、あの曲なんちゅータイトルだったっけ~」
個人的にそういう曲の筆頭だったのが、実は、バッジーのこのアルバムのタイトル曲であった。
これを確認できたのが、つい昨日だったので、かれこれ30数年かかったわけだ。

とあるサイトの情報によると、この曲がNHKFMでかかったのが1977年だったそうだから、今をさること34年ほど前だ。
たしか、そのときのラジオのDJは「バッジーのズームクラブ」と曲紹介をしたはずだ。
この前後、この番組ではハードロック特集をやっていて、いろいろとエアチェックしたものだ。
それらのカセットテープは、しばらく繰り返し聞いて、その後のわたしの音楽的嗜好に大きく影響を与えた。
確か、ブラック・サバスなんかも同じ番組で初めて聴いたと思う。

当時は、言うまでもなく、現在のように洋楽の情報が簡単に手に入る時代ではなかった。
ましてや、中学生くらいだったら、入手できるレコードも限られている。
同世代の人なら皆経験しているだろうが、数少ない洋楽好きの友人の間で、それぞれが入手したレコードを貸し借りしあって、少ない情報を補い合ったものだ。
そんな状況で、わざわざバッジーをレコードを買うヤツなんてそうそういない。
というか、そもそも普通のレコード屋さんで売っていたのかどうかも疑わしい。
実際、レコード屋さんで新品を見たことがないような気がする。
そんな中、ラジオの情報は貴重だったし、正しいものと信じていた。
だから、その曲は「ズーム・クラブ」だと信じて疑わなかった。

それから10年ほどたって、大学生になり経済的にも余裕ができると、中学生のころ好きだったけどレコードを買えなかった作品を中古屋さんや輸入盤屋さんで買いあさったものだ。
先般、記事にしたクラトゥをはじめ、スティーヴ・ヒレッジ、プロコル・ハルム、ビーバップ・デラックス、ロリー・ギャラガーなどなど。
ある日、某中古屋さんでバッジーのベスト盤を見つけた。
「おぉ、これはまさにあのバッジーか。あ、ズームクラブも入ってる」
と勇んで買って帰って聴いてみた。
「あれぇ、こんな曲じゃなかったけど・・・」
わかる人にはわかると思うが、例の曲は同じバッジーでもまるっきり傾向の違う曲なのだった。

とはいえ、名曲"Breadfan"で始まるこのベスト盤、ゴリゴリのハードロック全開で、それはそれで気に入った。
"Zoom club"、"In for the kill"など名曲ぞろいのこのレコードは愛聴盤となったが、それでも「違う」。
それ以降、CDの時代になって、バッジーも入手しやすくなったので、何枚か買って聴いてみたが、どうも違う。
バッジーといえば、重戦車のような突進型変態ハードロックの初期の印象が強烈で、記憶にあった例の曲とは、あまりにかけ離れていた。

だから、あの曲はバッジーの曲だったというのは勘違いで、まったく別のバンドだったのだろう、と思っていた。
記憶にある例の曲を言葉で表現すると、
「ハードなギターリフで始まり、甲高いボーカルで、せわしないリズムパターンを繰り返し、ころころと曲は展開していき、チャカポコしたギターのカッティングで賑々しく終わる」
というものだ。
確かに重戦車バッジーとはだいぶん印象が違うな。

ところが、だ。
冒頭に書いたようにとあるサイトに、当時の当該番組のオンエア曲の一覧が掲載されていて(よくぞこれほどまでに詳細に・・・と感心したが)、それで確認すると、確かにあるある。
しかし、これは聴いたことのない曲だ。
さっそく某通販サイトで発注。
だいぶん待たされて、昨日めでたく入手した次第。
30数年ぶりに聴いてみると、さきほど説明したとおりの曲だった。よかった。

本作は、バッジーの全盛期から下り坂にさしかかった時期の作品のようで、かつての重戦車バッジーの雰囲気はあまりない。
しかし、ハードなギターリフとどたばたしたリズムと、あの甲高いへにょっとしたボーカルはまさしくバッジーだ。
ブラック・サバスと同傾向のバンドに扱われがちなバッジーであるが、まぁ、確かに似た雰囲気はあるけど、おもむきはいささか異なる。
サバスみたいに「どろっ」とした暗さがあまりないのよね。歌メロも妙に明るいし。
そこが、このバンドの個性になっている。
本作では、その「どろっ」としていない部分が前面に出て、初期の重さが乏しく、ある意味極めて個性的な音楽ではある。
だから、いわゆるヘヴィーメタルを期待するとおおいに肩透かしを喰らう作品であるが、いかにもイギリスのハードロックらしいひねくれた感性は健在だ。
彼らとしては新機軸なのだろう、ファンク調のリズムパターンも取り入れたり、ギターオーケストレーションに挑んでみたりするだが、ちっとも垢抜けないところが、いかにもブリティッシュな感じでいいな(このあたりがB級呼ばわりされる所以なのであろう)。
そういう意味では、フォーク調で歌メロがややメランコリックなアコースティック曲は、初期から一貫した彼らの持ち味になっている。
これはちょっと興味深い特徴だな。
しばらく、バッジーにはまりそうな気がする(今さら?)。

Budgie

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2011年10月23日 (日)

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

フィリップ・K・ディック作の1968年発表の古典SFであり、サイバーパンク映画として根強い人気を誇る「ブレードランナー」の原作である。
「ブレードランナー」は、ずいぶん昔にテレビでみたことがあるくらいで、いや、レンタルビデオだったかもしれないが、妙に薄暗い画面と奇天烈なアジア風の街の風物が強く印象に残ったが、それほど思い入れのある映画ではない。
なぜ、改めて原作を読んでみようと思ったかというと、これが原因である。

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「ハルシオン・ランチ」

「無限の住人」で知られるマンガ家、沙村広明の作品なのだが、これがまた秀逸。
この作家の画力は相当なもので、それだけでも「買い」だが、2巻で完結というコンパクトさもちょうどよく、なんといっても設定だけで引き込まれる。
大雑把にいうとSFコメディなのだが、いたるところにシニカルでダークなお笑いが散りばめられている。
「むげにん」は徒に延長戦を戦い続けている感じだが、その合間を縫って、ときどき短編集や連作(しかもどれもおもしろい)を発表しているこの作家の力量を思い知らされる。
ストーリーについては、本稿から離れるので割愛。

で、本作中に「官能洞穴(タンホイザーゲート)」という言葉が出てくる。
気になるなぁ。
「タンホイザー」とは、ワーグナーのオペラのタイトルであり、その登場人物である中世ヨーロッパの騎士の名前だそうだ(実はストーリーとかあまり知らない)。
実はこの「序曲」というのがまた名曲で、雄大で勇壮な曲想はワーグナーの傑作だと思う。
だいたい、ワーグナーの管弦楽曲って、大仰で重厚で、ある意味わかりやすく、悪く言うと通俗的であまり通受けしない印象なのだが、大好きだ。
こういうのを聴くと、オーケストラの指揮者ってやってみたくなるねぇ。

まぁ、それはさて措き、「タンホイザーゲート」って何だ?
調べてみると「ブレードランナー」で使用されて広まった言葉らしい。
あぁ、そういえば、原作の小説のタイトルって、ちょっと変わった名前だったよなと思い、読んでみようと思った次第。

本屋で探してみると、あるある。
小松左京とはえらい違いだ。
しかもカバーがなんともかっこいい。
文庫本のカバーとしては衝撃的といっても過言ではないかも。
というわけで、即買い。

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内容は、第三次世界大戦後、放射性物質が降り注ぐ殺伐として荒涼としたアメリカ、サンフランシスコが舞台。
人々は、ムードオルガンなる装置により感情をコントロールされているという奇妙な世界で、人造人間アンドロイド(映画「ブレードランナー」では「レプリカント」と呼ばれているが)が危険な労働などに使役されているという。
裕福な階層の人々は地球外の天体(火星とか)に移住し、地球に残された下層階級の人々は放射能汚染に怯えつつ、電気仕掛けの動物をペットとして飼育している。
生身の動物は貴重で、大金をはたいてそれらを購入し、飼育することが地球の人々の憧れ、ステイタスになっている。
主人公、リック・デッカードは、逃亡したアンドロイドを処分することで生計を立てている専門の警察官「バウンティ・ハンター」であるが、電気羊を飼っていて、そのことが劣等感になっている。
いつもシドニー社の動物の価格表を携帯し、生身の動物の価格を憂いているらしい。
駝鳥が3万ドル、子馬が5千ドル・・・あぁ、オレの手には届かない、なんてな感じで。
映画みたいにかっこいい雰囲気はまったくなく、なんだかさえないサラリーマン風なのだ。
ちなみに彼がアンドロイド一体処分して得られる給料は1千ドルである。
そんな彼が、火星から逃亡してきたアンドロイドのグループを処分する戦いを描いたものである。
確か、映画「ブレードランナー」では、女性アンドロイドと恋仲に陥ってしまうような描写があったような気がするが、本作ではむしろそれはアンドロイドのハニートラップだったりする。
しかし、その過程のすったもんだで、人間とアンドロイド、生き物と電気動物の区別、意味合い、どちらが自分の帰属すべき仲間なのか、アイデンティティーが混乱してゆくという、なかなか深いストーリーである。
この奇妙なタイトルの意味はこのあたりにある。

読後にどんよりとした気分になった。
バーチャルリアリティが普通に身の回りに存在する現代って、この作品の世界とさほど距離はないと感じる。
そんな世界で、人間が人間らしく生きることはどういうことか、なんてな愚問に対する回答が示されているわけでは、もちろんない。
しかし、この長大な寓話が現代人に示唆することは重く深い。

なお、本作中には「タンホイザーゲート」なる言葉は出てこなかったようだ。
う~む、原書をあたらねばならぬのか?

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2011年10月 7日 (金)

【温故知故】Klaatu

先日の記事で「ニュートリノ」について言及した。
「ニュー」だからといって「新しい」という意味ではない。
「トリノ」だからといって北イタリアの都市ではない。
「トリノ・オリンピック」だからといって、ツバメが金メダル、スズメが銀メダル、カラスが銅メダルを取ったりしたわけでもない。
従って、大阪に「新大阪」があるように、横浜に「新横浜」があるように、トリノに「ニュートリノ」があるわけでもない(と思う、たぶん)。
ちなみに「ニューキョート」はウチの近所のパチンコ屋さんの名前だ。

そんなことはどうでもよく、いや、さらにどうでもよい話だが、わたしが「ニュートリノ」という言葉を初めて聞いたのは、1976年のことだったはずで、そのときは「新しい(イタリアの都市の)トリノ」だと思っていた。
標題に記したKlaatu(クラトゥ)なる妙な名前のカナダのバンドのデビュー作の最後に収録されている長尺曲のタイトルが、「リトル・ニュートリノ」というものだった。
これは、発表当時(だと思う)、NHKのFM(渋谷陽一のヤングジョッキーだったか)でオンエアされたときのことである。
ラジオで耳にしたものだから、「新トリノ」だと誤解したとしても責められまい。

クラトゥというバンドはデビュー当時、「ビートルズのメンバーが変名で発表したものだ」という噂がまことしやかにささやかれ、かなり話題になったと記憶している。
このほど、「ニュートリノ」つながりで久々に聴いてみた。
最初にラジオで聴いてから10年くらい後にレコードを入手したときもそう思ったが、
「これって、どこがビートルズ?」
まぁ、百歩譲って「ビートルズ」の影響が濃い作風であることは認めるが、何といっても、歌声が全然違う。
しかし、だからといって、このバンドの魅力が失われるわけではなく、叙情的で親しみやすいメロディと大掛かりでいささか偏執狂的なアレンジはなかなか個性的で、70年代後半の爛熟したロック音楽のある種の極北とでも言おうか。
はっきり言って名作でしょう。

ところで、「リトル・ニュートリノ」という曲は、ビートルズ臭さはほとんど感じられず、シンセサイザーを多用した、単調ながらも重厚でドラマティックなプログレ曲である(どうにも矛盾した表現だが)。
ボーカルにボコーダーみたいなエフェクトがかけられていて、どことなくクラフトワークっぽくもある。
ただ、クラフトワークのような乾いたユーモアみたいなものは感じられず、北東ヨーロッパ的叙情が溢れている。
「ニュートリノ」などという現代物理学用語を冠し、電子音にまみれた音楽であるにもかかわらず、冷たいながらも温かみのある不思議な感触のサウンドである。
いったいどんなことを歌っているのだろうか?気になる。
同時期にイーノやフリップ翁など悪い友達に唆されてベルリン3部作なんか作っちゃったデヴィッド・ボウイをちょっと思い起こさせる。
ちなみに、本作には、後にカーペンターズがカバーして有名になる"Calling Occupants Of Interplanetary Craft"も収録している。

実は手元のCDはデビュー作「3:47 EST」とセカンドの2in1。
むしろ2ndアルバム「Hope」の方が、変態度が高く、ある意味ビートルズ的ではある。
なんだか、映画のサントラみたいな組曲があったり、叙情性と変態性を無理矢理同居させたような曲があったり、拍子抜けするようなポップスがあったり、そういう予測不能で、めくるめく展開が心地よい。

確かに、部分的にはビートルズの影がちら見えするが、ただのエピゴーネンではなく、独自(というか空前絶後?)のスタイルは貴重だ。
ビートルズ云々を離れて評価されるべきバンドだったと思ふ。

Klaatu

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