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2007年9月25日 (火)

【牛丼を考える2】合理的な店舗形態を考察する。

さて、今回は、各店の店舗運営について考察してみよう。
ただ、残念ながら全店舗をチェックしたわけではないので、実際に足を運んだことのある店舗の情報に限られるのであるが。

各店の考察に入る前に、それぞれの非常に特徴的な運営形態を挙げておく。

・吉野家
どこの店舗もほぼ同じスタイルを保っている。すなわちカウンター席中心の店舗形態である。
さらにメニューは非常に少ない。

・なか卯
基本的に食券方式をとっている。カウンター席は道路に面して配置され、テーブル席も少なからずあるという方式。
メニューについては、前回も指摘された通り、牛丼中心ではあるが、うどんもバリエーションが多く、また牛丼以外の丼ものに特徴がある。

・すき家
カウンター席は吉野家に近い形態であるが、テーブル席も多い。
特筆すべきは牛丼のバリエーションの豊富さである。おいおい、何でも牛丼に乗っけりゃいいってもんじゃないだろう、と突っ込みたくなるような豊富さである。

・松屋

う~ん、あまり行かないから、よくわかんないや。
食券方式、カウンター店舗というくらいかな。

という具合である。

吉野家の店舗形態は、おそらく前回指摘した「立地と回転率」を考慮して発案されたであろうと想像できる。
すなわち都市部の狭い店舗で収益性を向上させようとすると、狭い空間で集客数を上げ、なおかつ回転率を上げなければならない。そのためには、カウンター方式が最適であるということである。
テーブル席だと、やっぱりついつい長居してしまうからね。カウンターだと、食べ終わるとすぐに店を出てしまう。
だいたいカウンター席って、妙に椅子が高くって、なんか座り心地が悪いのよね。
さらにカウンター方式の利点は、店員の動線が限定され、同時に最適に確保されている、すなわち無駄な動きをしなくてよい、ということである。
また、カウンターの下にはサイドメニューが収納されており、その点でも店員の動きに無駄がない。
ちなみに、店員の接客態度が一番教育されていると感じさせるのが吉野家である。
以上の点から、おそらく店舗経営は徹底的に合理的なシステムを導入しているものと思われる。
ここが、全国規模でトップを維持している秘訣なのだろう。Yoshinoya_2

一方の雄、なか卯はどうであろうか。
食券方式、及び、カウンターで商品を直接渡す準セルフサービス方式も採用しており、一見合理的に見える。
しかしながら、実態は、カウンターで食券を受け取っても、結局、「お席にお持ちいたします」って、感じで、席まで持ってきてくれる。
そりゃ、しかたないよな、カウンターで待たすわけにもいかないし。その上、ほとんどの客は食器を席に置いたまま店を出る。結局店員が食器を下げる訳だ。
食券方式の合理性を導入したというには、あまりに中途半端であることよ。
また、立地面で特徴的なのは、間口の広い店舗が多いことだ。吉野家には間口は狭いが奥行きのある店舗が多いのと対照的である。
なんとなく南北の通り沿いや角地に立地していることが多いという印象があるが、それも無関係ではないだろう。
これはテーブル席を確保するためには必然であるが、深夜営業時には、若者の溜まり場となっていることも多々見かけるので、あまり賢い運営をは言えない。
彼らは店舗の回転率を著しく下げていると思われるからである。まぁ、がらがらだからいいのかな。Nakau

というわけで、店舗の運営形態の合理性については、吉野家が一歩リードという感じだ。
しかしながら、食事という行為における一種の安心感がなかなか得られないのが吉野家でもある。
とにかく落ち着かないのよね。向かいに座ってるヤツの食べ方が妙に気になったりして。
例えば恋人同士が食事をするときって、やっぱり向かい合って食べたいじゃない。そういうときに吉野家は困る。
そういう気分がないと、単に「メシ食ってる」って感じで、なにかもの寂しい。
その点では、なか卯はまだ食事してる感じがする。
特にカウンター席で、深夜の通りを見つつ、世事にいろいろ思いを馳せながら食する牛丼は、なかなか味わい深い。
合理的システムが、必ずしも人の心を捕らえないってことだろう。
そういえば、なんとなく吉野家で牛丼食ってるヤツって、なんか殺伐としてるような気がする。気のせいか。

すき家は、両者の悪いところを取ってきたような運営で、はっきり言ってあまり感心できない。
テーブル席の客にはわざわざ店員がオーダーを取りに行くし、カウンターがありながら、サイドメニューは奥から取ってくるし。
そんな訳で、店が込んでくると、店員が対応しきれず、結構客を怒らせることもある。
しかし、滅多に店が込んでいるという状態に遭遇しないので、重要な問題ではないのかもしれない。
ここの最大の特徴は、そういう店舗運営の拙さを補って余りあるメニューなのだが、これについては、別項で述べる。

松屋はねぇ~。
食券方式、カウンター方式で、両者のいいとこどりって、感じなんだけど、なんせ店が狭いという印象しかないので、よくわからない。

さて、引き続き、外食産業でもっとも重要なメニューについての考察をしたいところであるが、紙面も尽きたようなので、機会を改めることとする。

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2007年9月16日 (日)

【牛丼を考える】京都牛丼チェーン店マップ

さて、気分を変えてひさびさの牛丼ネタだ。

少し前に数人の友人知人に

「京都市内で一番店舗数が多い牛丼屋って、どこかわかる?」

と聞いて回ったことがある。
京都市内で活動してる人なら、おそらく正解者続出だろうと思っていたが、意外なことに正解者はほとんどいなかった。

「う~ん、吉野家と違うの?」
「松屋かな?」
だいたいこの2通りの回答であった。
正解はなか卯である。
しかもだんとつでシェアNo.1だ。
ちなみに、主要4牛丼チェーン店の店舗数を並べると、以下の通り。

なか卯 20
吉野家 10
松屋 9
すき家 14

ちょっと調べが古いので、多少店舗数が増減しているかもしれないが、まぁ、なか卯の圧勝振りに変化はないだろう。
普段京都市内で生活していると、だいたい交通の要衝となるポイントには、だいたいなか卯が店を構えているという印象がある。
特に地下鉄烏丸線の駅を降りて地上に出ると、必ずなか卯の看板が目に入るという気がする。
(にも関わらず、先般の調査結果はどういうことなんだろう?)
こうして見ると、意外とすき家が善戦している。確かによく見かける気はするが、第2位の座を確保しているとまでは思わなかった。
意外といえば、全国的には牛丼チェーン店第1位の吉野家が少ないなぁ。松屋は、まぁ、こんなものだろう。

そこで、京都市内の牛丼チェーン店の立地を調査し、各社のマーケティング戦略を探ってみよう、というのが、今回のテーマである。って、何が今回なんだか。

画像の地図が各社のサイトで調べた店舗を京都市の地図にプロットしたものである。う~ん、よくよく見るといくつか間違いがあるなぁ・・・。Photo
こうして見ると、なか卯は見事にほとんどの店舗をいわゆる「洛中」(画像で薄く水色で着色している部分。あ、これは個人的な定義だよ)に構えていることがわかる。しかも烏丸線の中心駅前にはほぼ必ずある。
一方のすき家はというと、いわゆる繁華街(画像でちょっと濃く水色に着色している部分)で、なか卯と競合している店舗はあるものの、概ね洛外に展開していることが読み取れる。
調べてみるとなか卯とすき家は同じグループ企業なので、たぶん営業戦略的には、歩調をあわせて、競合しないようにしているのだろう。

それに対し吉野家は、市内ではあるが、洛外の店舗が意外と多い。地図の範囲外に一店舗あるが、これは淀競馬場にある店舗だ。
これは、おそらく洛中でのなか卯との競合を避けようとした立地戦略であろう。
マーケティングの理論としては古典である「ランチェスター理論」に則った判断である。賢明だ。
「ランチェスター理論」とは、もともと軍事戦略に関する統計学の理論で、マーケティング戦略に援用されて一般に流布されている。乱暴に要約すると、一人勝ちしている相手と真っ向からケンカしても絶対勝てない、という理論である。従って、生き残るためにはNo.1と競合しないマーケットで勝負するのが2番手の正しい戦略だ。そこで力を蓄え、No.1とのシェアの差が一定の数値以内(いくつだったかは忘れた)まで肉薄した時点でNo.1を蹴落とす戦いを仕掛けるというものである。

松屋はどうなんだろうなぁ。わざわざ危険を承知で激戦地に出店しているように見えなくもない。チャレンジャーなのかな。

牛丼屋ってのは、客単価が圧倒的に低い外食産業である。同時に客の在店時間も短い。従って回転率が重要な業種と思われる。とにかく回転率をあげることがその勝敗を左右するのであろう。
とすれば、やはり繁華街に店を構え、とにかく集客量を増加させることが必要である。地代家賃が多少かかっても薄利多売で乗り切れるはずだ。というか、乗り切れないと成立しない業種だと思う。
そう考えると、なか卯の食券方式は、この前提にたった店舗運営の手段として有効であるとことがわかる。

それからメニューの少なさ、これもポイントだ。
注文を受けてから、提供するまでの時間を短縮できるし、食材の仕入れ、在庫の効率も高くなる。
その上で、客単価をちょっとでも高くするべくラインナップされたサイドメニュー。
冷蔵庫からサラダのパック、生卵を出してお盆に載せるだけで、客単価は数百円向上する。
その観点からだと、実は吉野家は非常に効率的に運営されている。ほとんど必ずサイドメニューを勧めてくるもんな。フロント業務の教育が行き届いている。
ぜひとも洛中にがんがん進出して「京都牛丼戦争」を仕掛けていただきたいものである。が、やっぱり金持ちケンカせず、って戦略なのだろう。

話がメニューに及んだところで、これについても各社特徴があり、語りだすと長くなるので、また機会を改めるとする。

それはそうと、最近なか卯のテーマソングが店で聞かれない。いささか寂しい。

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2007年9月15日 (土)

「大王」

最近、マンガネタが続くなぁ。
別に暖めていたわけでもないけど、たまたまおもしろいものにあたったからかな。

Daiou

と、そういうわけで、先日の田中政志とはまた違ったタイプの作家のことなど。

黒田硫黄という作家だ。名前からしてインパクトあるなぁ。

田中政志がイタリアン・プログレだとすると、黒田硫黄はジャーマン・プログレだ。わけわからん喩えでごめん。
以前、なにかでこの人の絵が諸星大二郎の影響が感じられる、と読んだことがあり、それ以来気になっていたのだが、なかなかBOOKOFFに出回ってないらしく、ついぞ見かけることがなかった。
それが、最近、「大王」と「黒船」の2冊を入手。例の近所の古本屋だ。ここはBOOKOFFではないのだが、そのせいかかえってマイナーな本をよく見かける。
「怪談人間時計」が2冊並んでいたこともあった。日本広しと言えども、そんな古本屋なかなかないだろう。
そんなわけで、作家論を語れるほど読んでないんだけど、ちょっと感想文など。

さて、この「大王」であるが、一見して好き嫌いの分かれる絵だと思う。
とにかく描線が異常に「黒い」。きっと筆を使って描いているのだろう。
さらに画面を埋めつくすベタ塗りは、作品世界に暗い影を落としている。
それに反して、人物の表情は明るい。明るいというと語弊があるが、背景の暗黒との対比が独特の「空気」を生んでいる。
お話自体は、やや「不条理系」なのだが、人物が明るい顔をしているので、作品のトーンは決して暗くならない。
人物の輪郭を太い線で描き、細部に細かい線(けっこう雑に描いてあるが)で陰影をつける。そういうスタイルの絵が多いが、ペンの描線をのみ使った作品もあり、そのあたりは内容で使い分けているようだ。
女の子が主人公の話が多いのだが、どことなくその表情に宮崎駿の影響が感じられる。細かい描線による陰影のつけかたも、どことなく似てるなぁ。
そういえば、比較的最近、この作者の短編がスタジオ・ジブリ系の監督によってアニメ映画になったそうだ。見てないけど。

「大王」はデビュー作を含む短編集である。
これもストーリーの紹介をしても無意味な作品の目白押しだ。
例えば、「The world cup 1962」という作品は、

昭和37年、小学生の亀子は近所の悪童にいじめられていた。それをかばう彼女を慕う寺の小坊主、小林少年。
しかし、亀子は小林少年を嫌っていた。小林少年は、寺では住職から虐待を受ける身・・・。
などと説明すると、なんとなく滝田ゆうとかそんな感じの人情系、ほのぼの系のマンガかと思われるかもしれない。
しかし、その後、住職はなんらかの抗争に巻き込まれ腹部に銃弾を受ける。住職は、どういうわけか国防上の機密に関わる人物だったようで、「核戦争後の戦略システム」の鍵を小林少年に託して絶命する。
おりしも、中米カリブ海ではキューバ危機が勃発し、全世界を巻き込んだ核戦争が始まる。
「核戦争後の戦略システム」の鍵を握る小林少年は、亀子を救うべく夕餉の最中の彼女の自宅を急襲、拉致し、その鍵を開けるのであるが・・・。

てな、調子で、破天荒なストーリーというかなんというか。
他には、恋人に逃げられた女と、アパートの隣の部屋に住む象との交流(?)を描いた「象夏」だとか、地下鉄の駅からずっとつけてくる熊の話とか、蚊の恩返しの話だとか、そういう言語で説明してもよくわからない作品ばかりだ。
手塚治虫の「メトロポリス」を翻案した作品も収録されている。これも、レッド党のロボットを率いたミッチィが、廃墟と化したメトロポリスで、ケンイチ少年(浪人中)と野球をする、という素晴らしさ。
原作のクライマックス、「摩天楼での死闘」をきっちりはずした展開になっていて、作者の特性がよくあらわれているように思う。

一見、ハチャメチャな設定なのだが、どこか地に足がついたというか、登場人物の人としてのあり様がしっかり描かれていて、読み応えがある。
奇想天外なストーリーに翻弄されながらも、自分を見つめ、あるいは自分を探しながら行動し、泣き笑う登場人物たち。
かと言ってキャラクターに感情移入せずに、突っ放した視点で描き続けるスタイルにただものでない作家の力量を見る。
このあたりが冒頭に書いた、作品のトーンが暗くない所以なのだろう。

この作者の長編作品に「大日本天狗党絵詞」がある。
これも同じような作風は貫かれているが、話が長くなった分、散漫な印象は免れない。この作家のスタイルは中短編でこそ生きてくるのではないかと思う。

Tengu_2 Nasu_2 また、「茄子」という作品がある。
これは連作短編集なのだが、こちらは非常に日常的なシチュエーションで起こる出来事を淡々と描いた作品で、初期の破天荒さはないが、これはこれで味わい深い。
ただ、デビュー当初の個性的な絵柄がやや洗練されてきて、強烈なインパクトはない。内容にあわせて淡々と描いているのだろう。

あまり多作な人でないようだが、この作家も「見つけ次第購入」リストにしっかり入っている。

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2007年9月12日 (水)

「ゴン」

Gon_2 マンガというものは、つくづく絵が勝負だと思う。
当たり前といえば当たり前なのだが、内容とかかわりなく単に絵が好きだからという理由だけで、ついつい買ってしまう作家も少数ながら存在する。

古本屋で、105円棚を漁るとき、まず背表紙とタイトルに目がいく。
そこでピンと来るモノがない本は手に取ることがない。知ってる作家の本は別だけどね。
ピンと来て、ぱらぱらとページをめくり、買って帰って中身をじっくりと読んで、「嗚呼、また無駄金を遣ってしまった」と途方に暮れることは、ほぼ日常茶飯事である。
つまり、「ピンと来る」なんて感覚もいい加減だってことだ。
そんなわけでどーしょーもないマンガが書棚に増えてゆく。困ったモノだ。

そういう経験を積み重ねて、だいぶん学習した。
もうくだらないマンガは買わないぞ、と決意してBOOKOFFの門をくぐるのだ。
それでも、帰りには黄色い袋に入ったどーしょーもないマンガの数々・・・。
ちっとも学習してないやん。

かかる臍を噛むような辛苦を経て(えらく大仰だな)、最近は特定作家のみ探すようになった。
そういう作家の一人が、今回紹介する田中政志である。圭一じゃないよ。

この人の作品の特徴は、とにかく緻密に描き込まれた「絵」である。
恐らく1ページあたりの描線の数では、ダントツに日本一ではなかろうか、と思わせる描き込みである。
スクリーントーンやマンガの用語でいう「ベタ塗り」をほとんど使用せず、これだけの陰影と奥行きのある絵を描く人は、いまだ見たことがない。

この人の作品で有名なのが「ゴン」である。
恐竜(の子供)とおぼしき生物が、世界中の自然の中で、そこにいる動物たちと繰り広げる活劇を描いた作品だ。
出版時には結構話題になったし、古本屋でよく見かけるので、当時はそこそこ売れたのだろうし、見たことのある人も多いと思う。
自然界の動物が登場人物(登場動物?)なのだが、笑いあり感動ありのオトナでも子供でも楽しめる良質のエンターテイメント作品だ。
しかし、この作品は、いっさい言葉が書かれていない。すなわち映画でいうところの「サイレント」である。
従ってすべての出来事が無音の世界で繰り広げられるのだが、実は読んでいると脳内ではきちんと音が聞こえてくる。
それはすなわち「絵」の持つ力によるものだ。
その「絵」は、一見緻密であり写実的であるのだが、実は非常にマンガ的なディフォルメがされている。
青筋を立てたリスとか途方に暮れるライオンとか、その表情はマンガ的に豊かだ。
世界各国で出版され高い評価を受けたということだが、それも納得のいく話である。

・・・などと書くと、あまり刺激的でない絵本作家みたいなマンガ家と思われそうだが、そうでもない。

Upo_3 例えば「U.P.O.(未確認プリンス物体)」。
登場人物は人間であり、最低限のセリフや擬音もあるのだが、相変わらず「絵」の力は爆発的な作品である。
ストーリーの説明は、あまり意味がない。
第二次世界大戦のドイツ?から中世ヨーロッパまでメッサーシュミットでぶっ飛ぶ展開に説明など不要だ。
とにかく圧倒的な「絵」の力を味わうだけで、十分楽しめる作品だ。


また「ミス・マーベルの素敵な商売」。
世界史の様々な場面で出没するマーベル商会のセールスレディが、瀕死の戦士に、夕陽のガンマンに、複葉機の操縦士に、武器と勇気を与える話なのだが、その与え方が非常にエロティック(というかはっきり言ってスケベだ)。
いずれも、どうしたらこんな話をこんな絵で描けるの?という作品だ。
ある種の「過剰さ」が芸術の域まで達している作家である。

今後も、この作家の作品は105円棚で見つけ次第ゲットしようと思う。

Mismarbel_3   

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2007年9月11日 (火)

田中圭一マガジン Comicサイテー

ひさびさにマンガネタです。

わたしの周りのごく一部で、そのサイテーさ加減で圧倒的支持を受けている田中圭一というマンガ家の(おそらく)最新作品集だ。
近所の古本屋でひときわ目を引く背表紙。
これは逡巡する余地もなく買わざるをえない。

で、内容はというと、サイテーマンガ満載で、決して期待を裏切らない。
地球征服を企むボンノー星人と局部を露出した人体強化スーツで戦う「ハンラ・ウーマン」だとか
傭兵部隊の隊長が退役後、小学校に入学し、級友や先生と繰り広げる破天荒な日常を描いた「ブラディ・キッド」だとか
歩美ちゃんが拾ってきた子猫(なのだが広島のヤクザさんが子猫の着ぐるみをかぶっているようにしか見えない)と家族の交流を描いた「子猫のミィちゃん」だとか
もう、こうして書いているだけでも悲しくなってくるようなサイテーさ加減である。
こういう話が例によって端正な手塚絵や豪快な本宮絵で繰り広げられる。

・・・こういうのをおもしろがっていて人間としてよいのだろうか、としみじみ思いつつ秋の夜長は更けゆくのであった。

Saite_2

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