2011年10月25日 (火)

【温故知故】Budgie / If I Were Brittania I'd Waive the Rules

ブリティッシュB級鋼鉄王バッジーの6thアルバム(1976年)である。

昔々にラジオで聴いたけど、曲名がわからず、何年も聴けないままに過ごした曲ってのが、たまにある。
その曲を気に入ってしまっていたら、ずっと気になり続けることになる。
「あ~、あの曲なんちゅータイトルだったっけ~」
個人的にそういう曲の筆頭だったのが、実は、バッジーのこのアルバムのタイトル曲であった。
これを確認できたのが、つい昨日だったので、かれこれ30数年かかったわけだ。

とあるサイトの情報によると、この曲がNHKFMでかかったのが1977年だったそうだから、今をさること34年ほど前だ。
たしか、そのときのラジオのDJは「バッジーのズームクラブ」と曲紹介をしたはずだ。
この前後、この番組ではハードロック特集をやっていて、いろいろとエアチェックしたものだ。
それらのカセットテープは、しばらく繰り返し聞いて、その後のわたしの音楽的嗜好に大きく影響を与えた。
確か、ブラック・サバスなんかも同じ番組で初めて聴いたと思う。

当時は、言うまでもなく、現在のように洋楽の情報が簡単に手に入る時代ではなかった。
ましてや、中学生くらいだったら、入手できるレコードも限られている。
同世代の人なら皆経験しているだろうが、数少ない洋楽好きの友人の間で、それぞれが入手したレコードを貸し借りしあって、少ない情報を補い合ったものだ。
そんな状況で、わざわざバッジーをレコードを買うヤツなんてそうそういない。
というか、そもそも普通のレコード屋さんで売っていたのかどうかも疑わしい。
実際、レコード屋さんで新品を見たことがないような気がする。
そんな中、ラジオの情報は貴重だったし、正しいものと信じていた。
だから、その曲は「ズーム・クラブ」だと信じて疑わなかった。

それから10年ほどたって、大学生になり経済的にも余裕ができると、中学生のころ好きだったけどレコードを買えなかった作品を中古屋さんや輸入盤屋さんで買いあさったものだ。
先般、記事にしたクラトゥをはじめ、スティーヴ・ヒレッジ、プロコル・ハルム、ビーバップ・デラックス、ロリー・ギャラガーなどなど。
ある日、某中古屋さんでバッジーのベスト盤を見つけた。
「おぉ、これはまさにあのバッジーか。あ、ズームクラブも入ってる」
と勇んで買って帰って聴いてみた。
「あれぇ、こんな曲じゃなかったけど・・・」
わかる人にはわかると思うが、例の曲は同じバッジーでもまるっきり傾向の違う曲なのだった。

とはいえ、名曲"Breadfan"で始まるこのベスト盤、ゴリゴリのハードロック全開で、それはそれで気に入った。
"Zoom club"、"In for the kill"など名曲ぞろいのこのレコードは愛聴盤となったが、それでも「違う」。
それ以降、CDの時代になって、バッジーも入手しやすくなったので、何枚か買って聴いてみたが、どうも違う。
バッジーといえば、重戦車のような突進型変態ハードロックの初期の印象が強烈で、記憶にあった例の曲とは、あまりにかけ離れていた。

だから、あの曲はバッジーの曲だったというのは勘違いで、まったく別のバンドだったのだろう、と思っていた。
記憶にある例の曲を言葉で表現すると、
「ハードなギターリフで始まり、甲高いボーカルで、せわしないリズムパターンを繰り返し、ころころと曲は展開していき、チャカポコしたギターのカッティングで賑々しく終わる」
というものだ。
確かに重戦車バッジーとはだいぶん印象が違うな。

ところが、だ。
冒頭に書いたようにとあるサイトに、当時の当該番組のオンエア曲の一覧が掲載されていて(よくぞこれほどまでに詳細に・・・と感心したが)、それで確認すると、確かにあるある。
しかし、これは聴いたことのない曲だ。
さっそく某通販サイトで発注。
だいぶん待たされて、昨日めでたく入手した次第。
30数年ぶりに聴いてみると、さきほど説明したとおりの曲だった。よかった。

本作は、バッジーの全盛期から下り坂にさしかかった時期の作品のようで、かつての重戦車バッジーの雰囲気はあまりない。
しかし、ハードなギターリフとどたばたしたリズムと、あの甲高いへにょっとしたボーカルはまさしくバッジーだ。
ブラック・サバスと同傾向のバンドに扱われがちなバッジーであるが、まぁ、確かに似た雰囲気はあるけど、おもむきはいささか異なる。
サバスみたいに「どろっ」とした暗さがあまりないのよね。歌メロも妙に明るいし。
そこが、このバンドの個性になっている。
本作では、その「どろっ」としていない部分が前面に出て、初期の重さが乏しく、ある意味極めて個性的な音楽ではある。
だから、いわゆるヘヴィーメタルを期待するとおおいに肩透かしを喰らう作品であるが、いかにもイギリスのハードロックらしいひねくれた感性は健在だ。
彼らとしては新機軸なのだろう、ファンク調のリズムパターンも取り入れたり、ギターオーケストレーションに挑んでみたりするだが、ちっとも垢抜けないところが、いかにもブリティッシュな感じでいいな(このあたりがB級呼ばわりされる所以なのであろう)。
そういう意味では、フォーク調で歌メロがややメランコリックなアコースティック曲は、初期から一貫した彼らの持ち味になっている。
これはちょっと興味深い特徴だな。
しばらく、バッジーにはまりそうな気がする(今さら?)。

Budgie

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2011年10月23日 (日)

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

フィリップ・K・ディック作の1968年発表の古典SFであり、サイバーパンク映画として根強い人気を誇る「ブレードランナー」の原作である。
「ブレードランナー」は、ずいぶん昔にテレビでみたことがあるくらいで、いや、レンタルビデオだったかもしれないが、妙に薄暗い画面と奇天烈なアジア風の街の風物が強く印象に残ったが、それほど思い入れのある映画ではない。
なぜ、改めて原作を読んでみようと思ったかというと、これが原因である。

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「ハルシオン・ランチ」

「無限の住人」で知られるマンガ家、沙村広明の作品なのだが、これがまた秀逸。
この作家の画力は相当なもので、それだけでも「買い」だが、2巻で完結というコンパクトさもちょうどよく、なんといっても設定だけで引き込まれる。
大雑把にいうとSFコメディなのだが、いたるところにシニカルでダークなお笑いが散りばめられている。
「むげにん」は徒に延長戦を戦い続けている感じだが、その合間を縫って、ときどき短編集や連作(しかもどれもおもしろい)を発表しているこの作家の力量を思い知らされる。
ストーリーについては、本稿から離れるので割愛。

で、本作中に「官能洞穴(タンホイザーゲート)」という言葉が出てくる。
気になるなぁ。
「タンホイザー」とは、ワーグナーのオペラのタイトルであり、その登場人物である中世ヨーロッパの騎士の名前だそうだ(実はストーリーとかあまり知らない)。
実はこの「序曲」というのがまた名曲で、雄大で勇壮な曲想はワーグナーの傑作だと思う。
だいたい、ワーグナーの管弦楽曲って、大仰で重厚で、ある意味わかりやすく、悪く言うと通俗的であまり通受けしない印象なのだが、大好きだ。
こういうのを聴くと、オーケストラの指揮者ってやってみたくなるねぇ。

まぁ、それはさて措き、「タンホイザーゲート」って何だ?
調べてみると「ブレードランナー」で使用されて広まった言葉らしい。
あぁ、そういえば、原作の小説のタイトルって、ちょっと変わった名前だったよなと思い、読んでみようと思った次第。

本屋で探してみると、あるある。
小松左京とはえらい違いだ。
しかもカバーがなんともかっこいい。
文庫本のカバーとしては衝撃的といっても過言ではないかも。
というわけで、即買い。

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内容は、第三次世界大戦後、放射性物質が降り注ぐ殺伐として荒涼としたアメリカ、サンフランシスコが舞台。
人々は、ムードオルガンなる装置により感情をコントロールされているという奇妙な世界で、人造人間アンドロイド(映画「ブレードランナー」では「レプリカント」と呼ばれているが)が危険な労働などに使役されているという。
裕福な階層の人々は地球外の天体(火星とか)に移住し、地球に残された下層階級の人々は放射能汚染に怯えつつ、電気仕掛けの動物をペットとして飼育している。
生身の動物は貴重で、大金をはたいてそれらを購入し、飼育することが地球の人々の憧れ、ステイタスになっている。
主人公、リック・デッカードは、逃亡したアンドロイドを処分することで生計を立てている専門の警察官「バウンティ・ハンター」であるが、電気羊を飼っていて、そのことが劣等感になっている。
いつもシドニー社の動物の価格表を携帯し、生身の動物の価格を憂いているらしい。
駝鳥が3万ドル、子馬が5千ドル・・・あぁ、オレの手には届かない、なんてな感じで。
映画みたいにかっこいい雰囲気はまったくなく、なんだかさえないサラリーマン風なのだ。
ちなみに彼がアンドロイド一体処分して得られる給料は1千ドルである。
そんな彼が、火星から逃亡してきたアンドロイドのグループを処分する戦いを描いたものである。
確か、映画「ブレードランナー」では、女性アンドロイドと恋仲に陥ってしまうような描写があったような気がするが、本作ではむしろそれはアンドロイドのハニートラップだったりする。
しかし、その過程のすったもんだで、人間とアンドロイド、生き物と電気動物の区別、意味合い、どちらが自分の帰属すべき仲間なのか、アイデンティティーが混乱してゆくという、なかなか深いストーリーである。
この奇妙なタイトルの意味はこのあたりにある。

読後にどんよりとした気分になった。
バーチャルリアリティが普通に身の回りに存在する現代って、この作品の世界とさほど距離はないと感じる。
そんな世界で、人間が人間らしく生きることはどういうことか、なんてな愚問に対する回答が示されているわけでは、もちろんない。
しかし、この長大な寓話が現代人に示唆することは重く深い。

なお、本作中には「タンホイザーゲート」なる言葉は出てこなかったようだ。
う~む、原書をあたらねばならぬのか?

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2011年10月 7日 (金)

【温故知故】Klaatu

先日の記事で「ニュートリノ」について言及した。
「ニュー」だからといって「新しい」という意味ではない。
「トリノ」だからといって北イタリアの都市ではない。
「トリノ・オリンピック」だからといって、ツバメが金メダル、スズメが銀メダル、カラスが銅メダルを取ったりしたわけでもない。
従って、大阪に「新大阪」があるように、横浜に「新横浜」があるように、トリノに「ニュートリノ」があるわけでもない(と思う、たぶん)。
ちなみに「ニューキョート」はウチの近所のパチンコ屋さんの名前だ。

そんなことはどうでもよく、いや、さらにどうでもよい話だが、わたしが「ニュートリノ」という言葉を初めて聞いたのは、1976年のことだったはずで、そのときは「新しい(イタリアの都市の)トリノ」だと思っていた。
標題に記したKlaatu(クラトゥ)なる妙な名前のカナダのバンドのデビュー作の最後に収録されている長尺曲のタイトルが、「リトル・ニュートリノ」というものだった。
これは、発表当時(だと思う)、NHKのFM(渋谷陽一のヤングジョッキーだったか)でオンエアされたときのことである。
ラジオで耳にしたものだから、「新トリノ」だと誤解したとしても責められまい。

クラトゥというバンドはデビュー当時、「ビートルズのメンバーが変名で発表したものだ」という噂がまことしやかにささやかれ、かなり話題になったと記憶している。
このほど、「ニュートリノ」つながりで久々に聴いてみた。
最初にラジオで聴いてから10年くらい後にレコードを入手したときもそう思ったが、
「これって、どこがビートルズ?」
まぁ、百歩譲って「ビートルズ」の影響が濃い作風であることは認めるが、何といっても、歌声が全然違う。
しかし、だからといって、このバンドの魅力が失われるわけではなく、叙情的で親しみやすいメロディと大掛かりでいささか偏執狂的なアレンジはなかなか個性的で、70年代後半の爛熟したロック音楽のある種の極北とでも言おうか。
はっきり言って名作でしょう。

ところで、「リトル・ニュートリノ」という曲は、ビートルズ臭さはほとんど感じられず、シンセサイザーを多用した、単調ながらも重厚でドラマティックなプログレ曲である(どうにも矛盾した表現だが)。
ボーカルにボコーダーみたいなエフェクトがかけられていて、どことなくクラフトワークっぽくもある。
ただ、クラフトワークのような乾いたユーモアみたいなものは感じられず、北東ヨーロッパ的叙情が溢れている。
「ニュートリノ」などという現代物理学用語を冠し、電子音にまみれた音楽であるにもかかわらず、冷たいながらも温かみのある不思議な感触のサウンドである。
いったいどんなことを歌っているのだろうか?気になる。
同時期にイーノやフリップ翁など悪い友達に唆されてベルリン3部作なんか作っちゃったデヴィッド・ボウイをちょっと思い起こさせる。
ちなみに、本作には、後にカーペンターズがカバーして有名になる"Calling Occupants Of Interplanetary Craft"も収録している。

実は手元のCDはデビュー作「3:47 EST」とセカンドの2in1。
むしろ2ndアルバム「Hope」の方が、変態度が高く、ある意味ビートルズ的ではある。
なんだか、映画のサントラみたいな組曲があったり、叙情性と変態性を無理矢理同居させたような曲があったり、拍子抜けするようなポップスがあったり、そういう予測不能で、めくるめく展開が心地よい。

確かに、部分的にはビートルズの影がちら見えするが、ただのエピゴーネンではなく、独自(というか空前絶後?)のスタイルは貴重だ。
ビートルズ云々を離れて評価されるべきバンドだったと思ふ。

Klaatu

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2011年9月28日 (水)

果しなき流れの果に

先日、ニュートリノが光よりも早く移動していたことが観測されたというニュースがあった。
ほんとだとすると、アインシュタインの相対性理論を覆す大発見だそうだが、ことの真偽はこれから検証せねばならないようだ。
特殊相対性理論によると、移動速度が光速に近づくと、時間の流れはどんどん遅くなって、光速に達すると時間は止まるそうだ。
従って、移動速度が光速を越えると、時間が逆行するのではないかという。

タイムマシンの原理は、ものすごく早く移動する物体に乗って、その物体が光速に近づくと、外側の時間の流れよりも内側の時間がゆっくり流れるので、その物体から外に出たとき、未来に到着しているはずである、というものらしい。
しかるに、このニュートリノは光速より早く移動しているわけだから、こいつがスイスから発射された時刻よりイタリアに到着した時刻のほうが前になっているということになる。
これにて、過去への乱舞(大気の海で)が可能になると・・・。

はて?
さっぱり実感できないが、そんなようなことをテレビが教えてくれていた。
(ほんとにこんな理解でよいのかどうかはよくわからない)

このニュースを聞いたのは、おりしも、ちょうど先日物故された標題の小松左京の大昔の作品を読んでいた最中なので、なんだか妙な気分になった。

「果しなき流れの果に」

う~む、いかにも古典SFっぽい秀逸なタイトルだ。
先日、小松左京が亡くなったと聞き、あぁ、そういえば、昔っから読もう読もうと思いつつ、気がついたら本屋さんで見かけなくなったなぁ、と思ったのがこの作品。
亡くなったので、追悼フェアでもやるかな、と思ったが、そういう気配もなくひと月、ふた月と過ぎた。
近所の大型書店でもさっぱり見かけないので、結局某ネット通販で入手。
いやぁ、かれこれ50年近く前の作品なのだが、今でも十分おもしろく読めました。
あちらこちらに意味ありげにばら撒かれた伏線らしきエピソードは最後まで放置されていたり、用語や言い回しがさすがに昔ふうだったり、突っ込みどころはあるのだが、かなり強引なストーリーと頭でっかちな感じの妄想の力技で読ませる作品だ。
作者の若さに任せた勢いが感じられる。

内容を乱暴に要約すると、古くは白亜紀からいつとも知れない未来まで、縦横に出没する登場人物たちの奇想天外な戦記ということになるのだろう。
後に「日本沈没」や「復活の日」で結実する壮大なモチーフの萌芽もうかがえ、作家論的にも興味深い作品である。
な~んて、偉そうに言ってみたが、実は小松作品を愛読したのは30年以上も前の話。
はっきり言って、ほとんど忘れかかっている。
前々から、「日本アパッチ族」などは再読したいと思ってはいたのだが(読んだのは子供のころだったからね)、どういうわけか小松作品は文庫本で手軽に入手しにくい状況が続いている。
60~70年代のSF作家の作品ってそういうのが多いような気がする。
こういうのって、あまりいいことではないと思うのだが・・・。
エンターテイメント作品として軽く扱われているのかな。
海外の作家はそうでもないのだけどなぁ。

余談だが、海外のSF作品といえば、J・P・ホーガンを一時期よく読んだものだ。
ホーガン作品で、名作の誉れ高い「星を継ぐもの」が星野之宣がマンガ化していて第一巻が出ている。
これも先が楽しみではある。

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ところで、今気づいたのだが、「果てしなき流れの果てに」ではなく、「果しなき流れの果に」というのが正確なタイトルだ。
「て」が抜けている。
これは、何らかの作者のメッセージ?

・・・んなわけないか。

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2011年8月 7日 (日)

【温故知故】Deep Purple Made In Europe

故あって、最近、古いハードロックばかり聴いている。
誰がどういう基準でそういうふうに呼ばわっているのかよくわからないが、世の中にはB級バンドというのが多々あって、最近聴いているのはそう呼ばれているバンドの作品が多かったりする。
Budgie、Three man army、Hard stuff、May Blitzなどなど・・・。

では、A級ブリティッシュ・ハードロックってのがあるとすれば、それは誰だ?
Led Zeppelin、Deep Purple、Black Sabbath、Bad Companyあたりか?
洋楽情報の乏しかった70年代、ほぼリアルタイムで新譜が日本で発表され、ラジオでオンエアされ、雑誌の表紙を飾った人たちという感じかな。
どうもそういう定義付けができそうだ。

そう思って聴くと、B級と言われる人たちの音楽はよく言えば「個性的」、悪く言えば「大衆性に欠ける」と言えまいか。
つまりは「アングラ」っぽいのかな。
そのあたりがマニア心をくすぐるのだろう。

で、超A級ブリティッシュ・ハードロックの代表たるディープ・パープルの第三期ライブ盤である。
最近、NHKで「ディープ・ピープル」という番組をやっていて、どういう番組かの説明は割愛するが、その番組で毎回ディープ・パープルの曲がちょこっとかかる。
そのたび、あぁ、パープルかっこいいなぁ、と思うのである。
常々、「パープルは第一期が最高!二期とか三期とかしょーもない。四期に至っては評価に値しない」などと暴言を吐いているが、実は本心ではない。
やはり、子供のころの原体験というのは侮れないもので、いまだに「紫の炎」のイントロを聴くと全身にアドレナリンが分泌される気がするし、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のギターソロは弾けてしまったりする。
要するに、パープル大好きなのだ。

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そんなパープルであるが、最初に聴いたレコードが本作、「メイド・イン・ヨーロッパ」であった。
発売された当初、最新作だということで買ったはずだから、76年?
小学生のころだな。
買ったとき、既に解散していたのか、その寸前だったかは記憶にないが、少なくともリッチーは脱退後という認識はあったと思う。
もう少しパープルに関する基礎情報があれば、代表作「ハイウェイ・スター」とか「スモーク・オン・ザ・ウォーター」が収録されている「ライブ・イン・ジャパン」か「マシーンヘッド」を買っていたのだろう。
ただただ当時最高のハードロックを聴きたく思い、レコード屋さんに行って最新作を買ってきたのだと思う。

当時、初めて聴いた印象はおぼろげに残っている。
ドラムがかっこよいと思ったはずだ。
そのころから、バンドをするならドラマーになりたいと思うようになった。
中学で知り合ったロック好きの少年たちとバンドやりてーと悶々としていたころ、ちゃんと楽器の弾ける人は仲間うちには皆無だった。
実際に自分たちでバンドをするとなったら・・・と考えると、まぁ、それぞれの家の経済状態やら、練習する環境、友人間の力関係など、いろいろ課題はあった。
やっぱり、ドラムを持つには、大きい音を出しても大丈夫な住環境も必要だし、楽器も高価なのでそこそこ裕福な家の子でないと無理なのではないか・・・。
などと、子供の割りに分別臭いことを考えて、ギターかベース担当に変更。
幸い、兄が持っていたフォークギターが家にあったので、ギターは多少弾けるようになっていた。
仲間内のリーダー格の男がマッカートニー好きで、「俺はベースを弾く」と譲らなかったので、結局ギター担当ということになった。
その数ヶ月後には、新聞配達をして稼いだ数万円で、ヤマハのSGモデル(旧タイプだ)とテスコのアンプを入手し、ギター弾き人生はスタートするのだが、それは措いといて。
ちなみに、彼の家は郊外の広い家で、友人たちのたまり場になっており、後に最初期の「よたろう帝國」の練習場となった。

どうでもいい昔話はさておき、本作である。
皇帝宅ライブラリーのパープルCD化率は意外と低く、本作も久しく聴いていなかった。
70年代ハードロックリバイバルの嵐に吹かれて、やっとCDを入手し、久しぶりに聴いてみた。

今回、某通販サイトで検索してみたら、昔ながらの5曲入りしか売っていない。
しかも、入荷待ち状態でだいぶん待たされた。どうも納得いかんな。
パープルのライブといえば、「ライブ・イン・ジャパン」がハードロック史に残る名盤とされ、リマスターやらエクステンデッドバージョンやら、いろいろ出されているのに、本作はいまだにLP一枚分の収録時間で、昔ながらのフォーマットで流通している(別タイトルで同時期のライブは他に何点か出ているようではあるが)。
ちょっと扱いに差があるな。
世間的には第二期が最高で、他はオマケみたいな認識があるのかもしれない。
確かに第二期の演奏は凄まじいモノがあるが、バンドとしての整合性、完成度からいうと、第三期だって決して劣るものではないと思う。
「紫の炎」を始め、佳曲も多い。

リッチーのギタープレイに関しては、二期のような爆裂感には欠けるが、微妙なトーンコントロールと特異なスケール、絶妙な指捌きで、他を寄せ付けない圧倒的な存在感を醸し出している。
まさに「神技」というべきであろう。
新加入の二人のボーカルはそれぞれ個性的で、勢いがある。
ブルージーでエモーショナルなカヴァーデイルと高音シャウトがかっこいいヒューズ。
ヒューズはソウル、ファンク好きで知られるが、パープルではハードロック的なシャウターとしての印象が強い。
スティーヴィー・ワンダーがハードロックバンドで歌ったらこんな感じになるのかもしれない。
カヴァーデイルのぶつぶつしてねっとりした歌い方って、ときとして、やや鬱陶しいと感じることもあるので、一作くらいヒューズのみリードボーカルでアルバムを作ってみてほしかったものである。
トラピーズが、曲、演奏ともにいまひとつなだけに、なおさらね。
また、ベーシストとしても相当やり手で、部分的にはグローヴァーのボトムをしっかり支えています的なプレイと比べて、かなり自由度の高い演奏をしている。
ペイスのドラムに関しては、やっぱりパープルの要だなぁ、と納得の演奏。
よくも悪くも、パープルがヘヴィーロックにならないのは、彼のドラムのなせる業、と思う。
ロードに関しては、この人は、第一~二期で燃え尽きてしまった感があるが、手堅いプレイを聴かせている。

これらの優れたミュージシャンの個性が存分に発揮されている本作は、ハードロックバンドのライブ盤として傑作の域に達している。
「ライブ・イン・ジャパン」の破天荒なスリルはないが、音楽的な充実度ではいささかもひけをとらない。
もっと評価されていいと思うが・・・。

本作と同時に発注したのであるが、本作の着荷が大幅に遅れてしまったために先に聴くことになったのが、「嵐の支社」もとい「嵐の使者」。
リッチーが投げやりに演奏しているとか、カヴァーデイル、ヒューズのソウル、ファンク趣味が爆発とか、いろいろ悪評高い作品で、ついぞ今まで聴く機会がなかったのだが、聴かず嫌いはいかんな。
というわけで、発売以来37年目にして初めてきちんと聴いてみた。
なんでそれほど評価が低いのかよくわからんかった。
これは、ひょっとして大傑作ではないのか。
「紫の炎」よりこっちの方がアルバム作品としてはずいぶんよくできている。
というか、パープルのスタジオ作品って結構やっつけ仕事的なのが多い中、これは丁寧に作りこまれた印象だ。
ステレオタイプなハードロック曲は少ないが、パープルの新境地への試みは成功している。
ファンク調の曲でのリッチーとロードの演奏に若干ぎこちなさと違和感を感じる部分はあるにはある。
古臭いブルースロック風のギターソロとか。
しかし、巷間で言われるような投げやりな感じではなく、まぁ、熱気むんむんっ!という感じでもないが、案外丁寧に演奏しているのではないかな。
そういうところも含めて、聴きどころは多い作品である。
とはいえ、リッチーは不本意だったのだろうな。

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ちなみに、リッチーのパープル脱退の直接原因というのが、後にレインボーでカバーすることになる「黒い羊」という曲(70年初頭の英キーボードトリオ、クォーターマスの曲)をパープルで演奏したいと提案したところ、メンバーたちににべもなく却下されたことだとされている。
レインボーのバージョンもかっこいいが、この時期のパープルでのカバーが実現したら、どんなになっていたか興味津々。
原曲がいいだけに、相当いい感じになっていたのではなかろうか。
ちょっと惜しい話ではある。

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2011年7月17日 (日)

祇園祭

しばらく京都に住まっているが、祇園祭期間中は四条界隈を敬遠していた。
人ごみが嫌いだし、暑いし。

今晩、NHKで祇園祭宵山の実況中継を放送していた。
毎年やってるのかな?
今年も別に見に行くつもりはなかったが、テレビを見ていると、急に気が変わった。

保存会だかなんだかのおじさんがおもしろいことを言っていたのだ。
これまで祇園祭が千年の長きにわたり祭りが続いてきた理由とか。

元来、京都の町衆とは強力な経済力を握った自治組織だったという。
それが、政治的、経済的に行政機構に取り込まれ、力をそがれていった。
その流れの中で、唯一守り続けたものが「祭り」だったという。
「祭り」とは宗教儀式であり、現実と彼岸をつなぐものであり、われわれの「こころ」の拠所となるものなのだろう。
豊臣も徳川も、町衆から「祭り」は奪えなかったということか。

さらに、そのおじさんは次のようなことを言っていた。
日常の99%は「無(価値)」であり、残りの1%にこそ人生の「真実」がある。
その1%が「祭り」だ。
「神」と「人間」と結ぶ儀式なのだ。
そのことを子供たちに伝えていくことが、「祭り」を続けていくために必要である。
言葉による教育ではそのことは伝えられない。
実際に祭りに参加して、現場で作業をして、肌で感じ取っていくしかないのだ。
そのこと自体に大きな意味がある。

・・・う~む、深い。

日常の99%は無価値と断言してしまうのもすごいが、地元の保存会のおじさんが「祭り」にこれだけの意義を見出して取り組んでいるというのが、感動ものだった。
ほとんど宗教家のような発言ではないか。
これは、見に行かねばなるまい。

というわけで、晩飯ついでにふらふらと歩いていってみた。
新町通りを上がっていったのだが、五条を越えたあたりから人が多くなり、仏光寺あたりから道の両側に露店が並んで、すっかり街はお祭りモード。
なかなか進まない上に、暑い。
巨大な鉾やら山やらが豪華絢爛な装飾を纏い、路上に鎮座している。
これが明日には市中を引き回されるのかと思うと、ちょっとすごいかも。

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四条通りに出ると、時間も遅いせいか、ちょっと人ごみもすいてきた感じで、歩きやすい。
道が広いので、風も通り、暑さも和らぐ。
山やら鉾やら、それぞれの前に説明の看板が立っている。
数百年前からずっと続いているのもあれば、百何十年ぶりに復活したものもあるようで、それぞれに歴史あり、という感じ。
先のテレビでも触れられていたが、これらの山鉾は、それぞれが属する街の誇りであり、象徴なのだと思うと、感慨も深い。

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写真なんか撮ってみたけど、まぁ、ぼけぼけで何が写っているのかよくわからない。
雰囲気だけでも伝わるかな。

そのまま、西へ歩くと、堀川通りでホコテンは終了。
そのまま大宮まで行って、晩飯。
四条大宮といえば、王将の聖地。1号店。
「ブッキム丼Aセット」を注文。
なんだ、「ブッキム」って?
と思ったら、豚キムチのことらしい。
なかなか美味。七条店でも出していただきたい。

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再び、四条通りを東へ。
もう人もまばらで、露店も店じまい。
祭りの後の、疲労感が漂う街並。

実際に現場で見ると、テレビで保存会のおじさんが言っていたような宗教的な雰囲気はあまり感じられないが、「祭り」の雰囲気は味わえた。
普段とは違う異界の空気を僅かながら呼吸できたような気分である。

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2011年6月28日 (火)

クリス・スクワイアの逆襲 : Fly from here / Yes

Fly from here / Yes

Fly_from_here

イエスの新譜が出た。
"Magnification"以来10年ぶりとのこと。
しょっちゅうコンピレーションや発掘ライブ音源などが出ていたので、そんなに間があいているとはついぞ思わなんだ。
メンバーは、スクワイア、ハウ、ホワイト、まぁ順当。
意外にもジェフリー・ダウンズが参加している。
この人は、エイジアがらみでこのあたりの人たちと仕事をしていることが多いので、実は「意外」という印象はあまりなかったのであるが、よくよく考えてみると、"Drama"以来になるようだ。
30年ぶりだな~。
ボーカルはアンダーソンは病欠?で、Youtubeでスクワイアが発掘したというヴェノワ・ディビッドという人。
で、プロデュースがトレバー・ラビンじゃなくってトレバー・ホーン。
おぉ、この面子は、ほぼほぼ"Drama"イエスの復活ではないか。

本作に関する各種レビューを読むと、"Drama"イエスの復活と大々的に報じられている。
クリス・スクワイアの遺恨試合であるかのような言いっぷりである。
発表時の評価が、よほど不本意だったのだろうか。

以前は"Drama"はアンダーソン、ウェイクマン不参加作品なのでイエスとは認めん、という保守的なリスナーも多かったと思うが、それ以降の音楽性の拡散振りを見るにつけ、「古き良きイエス」を体現した傑作と評価が高まってきている(と思う)。
"Drama"は、アンダーソン、ウェイクマン脱退後、「ラジオスターの悲劇」で一世を風靡したバグルスの二人組み(ホーン&ダウンズ)を取り込んで、テクノ+プログレの新機軸を目指した作品としばしば評される。
とはいえ、聴いた感じでは、バグルスっぽいテクノ色は薄味で、むしろ楽曲の骨格は初期("The Yes Album"のころかな)のようにがっしりとして、ハードロック的な豪快さに溢れている(と思う)。

そんなわけで、"Drama"イエスの再現を期待して聴いてみた。
後半の数曲は、なんとなく録音しました、みたいな感じでいささか統一感に欠ける嫌いはあるが、冒頭の組曲では、いかにもイエスらしい音楽が聞かれる。
なかなかいいな、これ。
しかし、"Drama"の続編かというと、そんなでもなく、意外にも、むしろ"ABWH"を想い起こさせる。
おっかしいなぁ~。メンバーは"H"しかかぶっていないのだが・・・。
気のせいかな。

新加入のディビッドは、確かにアンダーソンっぽい雰囲気もあるが、「そっくりさん」というほどではない。
下手なボーカルではないと思うが、とりたててすごいこともない。
どことなく、"Drama"でのトレバー・ホーンに通ずるものがあるような気もする。
写真を見る限り、風采の上がらない普通のおっさんでしかないのだが、これからどうなってゆくのだろう。

というわけで、期待はちょいと裏切られたが、老いてますます盛んなスクワイア爺さんでした。

Kc_projekct

A Scarcity of Miracles / A King Crimson ProjeKct

ついでに・・・というわけでもないのだが、同時に発表されたのが、英プログレ業界のもう一方の雄、キング・クリムゾンはロバート・フリップ翁の新プロジェクトの作品も入手。
「キング・クリムゾン最終形態ついにその姿を現す!」な~んて相変わらずの煽り文句で、過大に期待を膨らませてしまうのが、門徒の悲しい習性か。

メル・コリンズが参加している以外は、いわゆるクリムゾンのメンバーは不在なので(トニー・レビンがゲスト参加している)、"ProjeKct"名義にしているのであろう。
ボーカル、ギターのジャッコ・ジャクスジクという人は、確かマイケル・ジャイルズの娘婿だったのではなかったか。
この人は「21世紀の精神異常バンド」で来日公演をしているので、見たことがあるはずだが、あまり印象にない。

で、聴いた感じは、ゆったりとしたジャズ・ロック?
エイドリアン・ブリュー在籍時の、ちょっと叙情的でメロディアスな曲みたいなのをコンテンポラリーなジャズ風のアレンジでやってみました的な、なんと言っていいのかわからない作品。
フリップ翁は「ヌーヴォー・メタル」をやめちゃったのかな?
決して聴き苦しい音楽ではないので、損した気分にはならないけど、これが「キング・クリムゾン最終形態」と言われても、いささか納得がいかない。

ところで、近年クリムゾン関係諸作のジャケ絵は、同じ人が描いているような気がするが、本作も同じような感じのイラストだ。
青木繁の有名な絵(なんだったけなぁ?)をアンリ・ルソーが描いたような。
ちょっと不気味だが、結構好きだな。

【以下、6/29に追記】

・・・と書いてはみたものの、改めて聴きなおしてみると、

>"Drama"の続編かというと、そんなでもなく、意外にも、むしろ"ABWH"を想い起こさせる。

てなことはまるでなく、タイトルとなっている組曲に関しては、楽曲、アレンジ、サウンド、演奏ともに"Drama"の続編といっても差し支えない。
"ABWH"とはだいぶん違う。
あえて、似ている点を挙げれば、
「イエスに関与したメンバーが『イエスらしさ』を追求して製作した音楽」
という雰囲気が漂っている点だろうか。

今後、アンダーソンが復帰することになったりしたら、この作品の扱いはどうなるのだろうか。
"Drama"なみに冷遇されてしまうとすれば、ちょっと残念かも。
いずれにしても、スクワイアの底力を感じさせる力作である。

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2011年6月13日 (月)

【温故知故】Over the Rainbow

先月号のレコードコレクター誌はレインボウの特集であった。
リッチーやロニー、コージーについて、レインボウ以前、以後の活動について誌面を割いて詳しく解説するのは当然だろう。
しかし、それ以外のメンバーについて、ほとんど言及がないのは、いかがなものか。
2nd"Rising"がハードロック史上に燦然と輝く名盤たりえたのは、キーボードプレイヤーの活躍があってこそだと思うが。
そのキーボードプレイヤーはトニー・カレイ(ケアリーとかカリーとかいろいろ呼ばれているが本当はどうなのだろう)である。
"On Stage"でも素晴らしいプレイを聴かせていたのに、あっさりクビになって、惜しいものだ。
3rdでも弾いていたら、あの作品の評価もずいぶん変わったのではないかと思う。

"Rising"の聴きどころは、レコードだとB面の2曲、"Stargazer"と"A light in the black"であろう。
特に、後者での高速8ビートに乗せてぶりぶりと駆け回る長尺シンセソロは、その直後のクラシカルな高速アルペッジオのアンサンブル(いやぁ、ここのコージーは最高にかっこよい)によるクライマックスを導く。
この後に続くリッチーのソロも彼のキャリアの中で最高の部類に属するものであろう。
楽曲、演奏および歌唱、アレンジ、サウンド・プロダクション・・・録音作品の質を維持するのに不可欠なこれらの要素が、恐らく最高の形で残されたのがこの"Rising"という作品ではないか。
トニーの功績は大きい。

"A light in the black"でのトニーのソロは、パトリック・モラーツによるイエス"Sound chaser"などと並びロック界におけるシンセソロの金字塔だと思う。
"Tarot woman"の導入部のシンセソロも、まぁありがちといえばそうなのだが、劇的な効果を生んでいる。
そういえば、トニーもモラーツも、一世代前の名プレイヤー、例えばジョン・ロードやキース・エマーソンと比べて、クラシック嗜好に乏しく、ジャズやブルース臭いところが特徴かも(トニーはアメリカ人だからな)。

Tony_carey

それはさておき、今回入手したのは、このトニー・カレイのソロ作品である。
89年の作品とのこと。
彼がレインボウをクビになってからどこでなにをしていたのか、ほとんど知識がなかったので、もちろんどういう音楽なのかも存ぜぬ。
ジャケ写真を見て、まぁハードロックはやっていないだろうな、とは思った。
でも、ひょっとして一曲くらいは、ハードインストがあって、ぶりぶりとシンセソロを聞かせているのではなかろうか、と期待はしていた。

ところが、全編アダルトな感じのボーカルナンバー・・・。
結構、歌うまいな。
演奏もほとんど一人でやっているのか。多才な人だな。
案外、いい作品かもしれん。
・・・う~む、往年の熱演は期待していなかったし、予想通りの結末だが、なんだか一抹のさびしさを感じたのであった。

ところで、近年、トニーを含むレインボウOB(とリッチーの息子と)でOver the Rainbowなるバンドを結成したとのこと。
ちょっと期待してみたりして。

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2011年6月 8日 (水)

【温故知故】「過ぎ去りし夏の幻影」と「産児制限」

HMVから誘惑メールが来た。
洋楽CDのバーゲンとな。
こういう機会に、レコードは持っているけど永らく聴いていない作品とか、前々から聴いてみようと思いつつ機会を逃していたCDをぽちぽちと注文してしまう。
な~んか、店の思うツボだなぁ。

そんなわけで、ジャーマンロックの有名どころを2作。
とは言っても、ひとつはベスト盤だけど。

Novalis

Sommerabend / Novalis

76年発表の本作、かつては「過ぎ去りし夏の幻影」という邦題がつけられていたという。
実に秀逸なタイトルだ。あたかも音楽が聞こえてくるようだ。
直訳すれば「夏の夜」ということらしいが、ドイツのような高緯度の地域では、われわれが思い描く「夏の夜」とはいささか趣きが違うのだろう。
ジャケに描かれた仄暗い宵のような雰囲気なのだろうか。

ジャーマンロックといえば、スコーピオンズに代表されるハードロック、メタル系かカン、ポポル・ヴーなどのようなプログレというか前衛色の強いものが想い起こされる。
なんだか、理屈っぽい感じか。
しかし、このノヴァリスは、端正なアンサンブルと抑制の効いた歌唱で、その先入観を裏切る。
ドイツ語による歌唱に引きずられた印象かもしれないが、なんかカクカクした感じで、イタリアン・ロックのような自由闊達なのびのびとした雰囲気はない。
よくレビューで語られているが、朴訥としたロマンティシズムとでも言おうか。
楽曲は「宮殿」クリムゾン風の白玉バッキングキーボードで彩られたメロディアスなものだが、クリムゾン的大仰さ重苦しさ禍々しさは乏しく、もっとこじんまりとした感じ、室内楽的といってもよいかもしれない。
しかし、ぱっと聴いた感じではジェントルなのだが、意外にも個々の楽器は結構ちからの入った演奏をしている。
特にギターは、ギブソン系の歪んだ音でザクザク弾いていて、なかなか気持ちよい。
エフェクターなんかの機材も乏しかった時代だからなのだろうが、アンプ直結っぽいストレートな音だ。
同傾向のドイツのバンドにヘルダーリンというのがあるが、ノヴァリスの方がよりハードロックっぽいのではないかな。

Birthcontrol

The very best of / Birthcontrol

活動期間の長いバンドのようだが、本ベスト盤に収録されているのは、72~75年という短い期間の楽曲である。
恐らく3作品からの抜粋なのだろう。
バースコントロールは、ハードロックバンドともプログレとも紹介されているが、まぁ、両者の境界が曖昧というかそもそもそんな区別がなかったころの音楽である。
こちらは、ドイツっぽい理屈っぽさや実験性がやや感じられるが、どたばたとした仕掛けの多い演奏とパワフルというか妙に力みかえった歌唱のどことないアンバランスがおもしろい。
特に、ちょっとしたスタジオギミックというか、ミキシングでのエフェクト処理が露骨で、時代を感じさせる。
ドラマーが中心メンバーだったせいか、ドラムの音量が大きめで、うるさいといえばうるさいのであるが、ダイナミックであるとも言えなくもない。
キーボードは達者な演奏を聞かせるが、特にシンセサイザーがまだまだ新奇なものだったせいか、アナログシンセのぽよんぽよんぶにょ~とした音でのソロがしつこくって、これもまたよし。
クラフトワークやタンジェリンドリームとの距離はそんなに遠くないという気もしなくはないが、メンバーが体質的にフィジカルな人たちなのだろう、全体に暑っ苦しい感じだ。
そいういう点では、同時期同国のフランピーというバンドに似ているような気もする。

・・・という具合に、同時期のドイツのバンドを2連発で聴いてみた。
どういうわけか、ミキシングの感じがよく似ている。
ライブ感のある音作りとか、楽器のバランスとか。
この時期、この国での流行なのだろうか。

ジャーマンロックといえば、先述の通り、エクスペリメンタルなものを想い起こすが、こういう直球勝負みたいなバンドもいたのであろう。
当たり前といえば当然なことであるが、こういう新しい知見を得るのもまた愉し。
かくして「温故知故」の細道は続くのであった。

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2011年2月12日 (土)

タイガーマスク

やっと読めた。

某通販サイトで注文してから、入手するまでは案外早かったが、なかなか読了できなかった。
文庫本サイズで読みにくいということもあったが(悲しいかな、小さい字が読みにくい。老眼が入ってきたのだろう)、やはり、ページあたりのコマが多く話運びがゆっくりしているのと、説明的な書き込みが多く、スピード感を殺しているところが主な原因だろうと思う。

残念ながらプロレスにほとんど思い入れがないので、実在の名レスラーが活躍していても、さほど感動することもなく、淡々と読み進めることができた。
しかし、馬場、猪木はもちろん、「吹けよ風呼べよ嵐」ブッチャーや「スピニング・トー・ホールド」ファンクス、「スカイハイ」マスカラスなど、なじみのあるレスラーが登場し、ややリアルタイムな雰囲気が感じられた。
そういえば、キャメルのCapturedも誰かの入場テーマ曲になっていたなぁ。誰だっけ?(調べてみると前田日明だそうだ)

辻なおきの絵は、劇画以前のリアル少年マンガ風のもっちゃりした感じで、さすがに現代マンガに慣れた目で見るといささか古さは否めない。
ストーリーもなんとなくご都合主義的色彩は拭えないし、後半はやっつけ的に進行し、あれよあれよという間に交通事故で不意に亡くなって終わってしまう。
作品の大部分は試合のシーンで、半裸のマッチョたちが血みどろになってくんずほぐれつ飛び交う絵がこれでもかと続く。
鬱陶しいといえばそうとも言えなくもないが、丁寧に描かれたレスラーたちは、それはそれで見応えがある。

実在のレスラーとの試合(これは普通の試合)や虎の穴が派遣する悪役レスラーやインディーズ系?の奇天烈な覆面レスラーとの奇想天外なデスマッチ(合法的殺人といえよう)が次々と行われ、試合と試合の合間に、タイガーマスクこと伊達直人が素性を隠してちびっこハウスを慰問し、大判振る舞いをする。
ときどき、必殺技を開発するために姿をくらましたりするが、基本はその繰り返し。

さて、話題となっている寄付行為だが、タイガーは決して余ったお金を恵まれない子供たちに与えているのではない。
文字通り命を懸けて稼いだファイトマネーのほとんどを自らの生活を省みず与えているのである。
それが可能なのは、幼少のころから虎の穴で鍛えられたプロレスラーとしての技術と屈強な肉体があってのことだ。
そのような無償の善意を支えているのは、一体何だったのか。
伊達直人少年失踪のきっかけとなったのは、彼の育った「ちびっこホーム」(「ちびっこハウス」の前身)が借金のカタに他人の手に渡ってしまうことであった。
その後、彼は「虎の穴」に拾われ、レスラーとしての修行生活に入ってゆくのだが、そこでの地獄の訓練(入門者のほとんどが卒業できずに死亡してゆくという)に耐え抜いたのも、恐らく金銭至上の価値観に対する怒り、大金を稼げるようになって孤児たちの生活の場を取り戻すという執念があったからであろう。
卒業後、当初はファイトマネーの50%を「虎の穴」に送金するという契約を守っていたが、「ちびっこハウス」の危機に際しその契約を破り、その結果、次々と刺客を送られ、命を狙われることになる。
それでも、「ちびっこハウス」への援助はやめず、暴力団を撃退し、プールを作り、雛飾りを贈り、自らの試合に招待を続けた。
さらには、全国の孤児たちが幸福に暮らせる総合エンターテイメント施設?「ちびっこランド」の建設に着手する。
まさに命懸けの奉仕だ。
しかも、これらの寄付行為は、ひょんなことでハワイの親戚から莫大な遺産を相続した「キザにいちゃん」伊達直人の酔狂で行っていることになっている。
つまり、タイガーその人が経済的援助を行っていることを健太たち、ちびっこハウスの孤児たちは知らない。

う~む、善意もここまでくると、ほとんど宗教的色彩を帯びてくる。
直人の正体に気がついているルリ子さん(と若槻先生)が崇拝に似た感情を抱くのも無理のないことだ。
そもそも殉教者のようなこのような命懸けの奉仕が誰にでも出来るわけはない。
だからこそ、伊達直人を名乗る市井の善意は価値があるのだろうと思う。

タイガーが飛行機に覆面着用で搭乗していたり、「虎の穴」本部に馬場、猪木らが大挙して押しかけたり、「それはないやろ~」という突っ込みどころも満載ではある。
直人の妄想の中のビキニ姿のルリ子さんが、意外にマッチョだったり(^^;)
そういう壮大なホラ話での笑いを凌駕してあまりある感動がこの物語にはある。
伊達直人は、完全無欠のヒーローではない。
試合中にも「どうしてこんな苦しい思いをしてまで・・・」と苦悩するひとりの青年である。
そんな人間くささがこの浮世離れしたファンタジーに血肉を与えているのだろう。
案外、深い話だ。

Ts3g0198

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